三十三所觀音 | 増補語林倭訓栞 明治31年(1898) 原典:撮壌集 享徳3年(1454) |
撮壌集 | 現在 | ||
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1 | 波愛 行願寺 | 行願寺 | |
2 | 山井 天王寺 | 如意輪 | 廃寺[1] /如意輪観音は廬山寺へ
※ 明治7年(1874)、廬山寺に合併 |
3 | 乗北院[2] 千手堂 | 一條京極 | 東北院[3] |
4 | 河崎 感應寺 | 聖觀音 | 廃寺[4] /河崎観音は清和院へ
※ 清和院に合併 |
5 | 子安觀音 | 聖觀音丈六石像北白川神樂岡北 | 子安観世音[5] |
6 | 新長谷寺 | 十一面二丈〔尺カ〕六寸吉田東頰 | 新長谷寺 |
7 | 吉田寺 | 行基御作 | 廃寺[6] /吉備観音は金戒光明寺へ
※ 寛文8年(1668) |
8 | 善法寺 | 十一面三体内一体天神御作一体慈覺一体善相公岡崎西頰 | 廃寺[7] |
9 | 東岩藏寺 | 千手行基一刀三禮等身 | 「東岩蔵寺真性院[8]」廃寺 |
10 | 太子堂 速成就院 | 如意輪 | 白毫寺[9] |
11 | 長樂寺 | 三寸金銅 | 長楽寺 |
12 | 千手堂 長福寺 | 阿彌陀寺前北祇園南行基御作 | ★調査中 |
13 | 六波羅密寺 | 十一面空也上人建立 | 六波羅蜜寺 |
14 | 六道 珍皇寺 | 十一面式不空羂索 | 六道珍皇寺 |
15 | 黒岩七觀音堂 | 式院淸水坂 | 「七観音院[10]」廃寺? |
16 | 淸水寺 | 清水寺 | |
17 | 如意輪堂 | 淸水瀧上 | 善光寺堂?[11] |
18 | 淸閑寺 | 千手行基御作 | 清閑寺 |
19 | 蓮華王院 | 千手卅三間 | 蓮華王院 |
20 | 圓通寺 二階堂 | 如意輪新熊野觀音寺大路 | 「円通寺[12]」廃寺? |
21 | 觀音寺 | 十一面弘法一刀三禮等身 | 今熊野観音寺 |
22 | 泉涌寺下 | 從二泉涌寺中一有道 | 泉涌寺 楊貴妃観音堂[13] |
23 | 梵音寺 | 千手弘法等身御作法性寺大路東頰 | ★調査中 |
24 | 隨身院 | 千手九條富小路西頰 | 隨心院[14] |
25 | 東寺食堂 | 千手 | 東寺 食堂 |
26 | 空也堂 如意輪堂 | 下北小路猪熊北西頰 | ★調査中 |
27 | 妙法寺 | 穴浦堂下北小路町 | ★調査中 |
28 | 六條八幡 | 東廻廊檜像三尺 | 若宮八幡宮[15] |
29 | 頂法寺 | 聖德太子御作守佛一寸八分■浮檀金像三尺覆身太子御作一刀三禮 | 頂法寺 |
30 | 長泊寺 | 三條坊門烏丸東頰 | 「因幡堂塔頭 長伯寺[16]」廃寺 |
31 | 東千手堂 淨光院 | 仁和寺池上白蓮社乾 | 「仁和寺支院 浄光院[17]」廃寺 |
32 | 神應寺 | 仁和寺御堂南神殿下 | 「仁和寺支院 神応寺」廃寺 |
33 | 朝日寺 | 北野社中 | 東向観音寺[18] |
注)〔 〕は原文の傍注。 |
[1] | 金山天王寺は承元元年(1207)に創建され、承久年中(1219-22)に五辻へ移り、さらに天正年間(1573-92)に七本松今出川西北の地へ移りました。
「都名所図会(巻之六)」の中に以下の記述があります。 「金山天王寺は北野社東の門通にあり 天台宗にして本尊如意輪観音は聖徳太子の作なり」 |
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[2] | 「乗北院」は「東北院」の誤記と思われますが、原文のまま表記します。 |
[3] | 「山城名勝志(巻第三)」に以下の記述❐があり、東北院に千手堂があったことが分かります。
「○千手堂 相國寺御塔供養記ニ云 上東門院の東北院も千手堂ばかりぞ殘りたる」
平安〜安土桃山の頃を描いたとみられる「中古京師内外地図」では、賀茂川西岸に「東北寺(=東北院)」が描かれています。 元禄5年(1692)に類焼し、上京区北之辺町付近から現在地へ移転しました。 |
[4] | 感応(かんおう)寺は一条河崎観音寺とも称し上京区梶井町付近にありましたが、享禄4年(1531)に焼失し、後世清和院に合併されたと伝えられています。
平安〜安土桃山の頃を描いたとみられる「中古京師内外地図」では、賀茂川西岸に「河サキ堂観音(=感応寺)」が描かれています。 |
[5] | 子安観世音(阿弥陀仏とも)は像高2mの石仏で、鎌倉時代の作と言われています。
京羽二重の名観音の項に書かれている田中の福善寺(詳細不明)との関連性は不明です。 |
[6] | 吉田寺は金戒光明寺の西方の吉田中山にありました。
吉備観音は吉備真備が刻ませた千手観音で吉田寺の本尊でしたが、寛文8年(1668)に吉田寺が廃寺となり、徳川幕府の命で金戒光明寺へ移されました。
平安〜安土桃山の頃を描いたとみられる「中古京師内外地図」では、吉田山の西と南の2ヶ所に「吉田寺」が描かれていますが、南の吉田寺が該当の中山観音堂のようです。 |
[7] | 「伊呂波字類抄」によれば、善法寺はもともと三善清行の別業であった華亭を後に道場としたもので、場所は現在の岡崎神社(左京区岡崎東天王町)の境内にあたります。 |
[8] | 「花洛名勝図会(東山之部二 )」の東岩蔵寺真性院の項に以下の記述があります。 「観音堂 山の半腹にあり 十一面尊を安す 是いにしへの伽藍の古趾なりとぞ」 |
[9] | 「山州名跡志(巻之二)」に以下の記述があります。
「白毫寺 院號速成院。具サニハ速成就院也。又太子堂ト號ス。・・・ 知恩院 御建立ノ時寺ヲ五條ノ下ニ移ス」
平安〜安土桃山の頃を描いたとみられる「中古京師内外地図」では、祇園社(=八坂神社)の北に「太子堂 一名 連成就院(=速成就院の誤記?)」が描かれています。 |
[10] | 七観音院で間違いないと考えていますが、「黒岩」が不明です。 また、七観音院は2018年に法人番号が更新されていますが、門や堂宇がすべて取り壊され、現在は更地になっています。 |
[11] | 現在は清水寺塔頭の善光寺堂(旧・地蔵院)に祀られている如意輪観音(鎌倉時代末期作)の可能性が高いと考えています。 「山州名跡志(巻之二)」の地蔵院の項に以下の記述があります。 「中尊 如意輪観世音 ・・・ 此ノ観音ハ古ヘ号スル二妙心ト一老尼ノ持尊ニシテ安ス二艸菴ニ一 其ノ地當山瀧ノ南路傍ノ東ナリ。」 |
[12] | 平安〜安土桃山の頃を描いたとみられる「中古京師内外地図」で、観音寺今熊観音の西に「円通寺」が描かれています。 |
[13] | 楊貴妃観音は寛喜2年(1230)にもたらされた像です。 |
[14] | 隨心院は応仁の乱(1467-77)でほとんどの伽藍が焼失し、慶長4年(1599)に旧地で再興されるまで、寺地九条唐橋や相国寺近辺などへ移転していました。 |
[15] | 若宮八幡宮はもと左女牛(さめうし)西洞院(現・下京区若宮町付近)にありましたが、天正11年(1583)に東山へ、同16年(1588)に方広寺の北へ、慶長10年(1605)に現在地へ移転しました。 |
[16] | 長伯寺はもと烏丸御池付近にありました。 「京都坊目誌(下京第十二學區之部)」の元塔中長泊寺の項に以下の記述があります。 「元二條殿内にあり中世之(=下京区因幡堂町)に移り。天明後廢寺となる。」 |
[17] | 浄光院は鎌倉時代に同じ仁和寺支院の池上千手堂(東千手堂)と合併したようです。 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、仁和寺の住侶として「浄光院」が記されています。 |
[18] | 「山州名跡志(巻之八)」は朝日寺と東向観音寺を分けて記述し、両者を関係付ける説明はありませんが、「京羽二重」以降の資料に従って東向観音寺を朝日寺の後継寺院としています。
東向観音寺の山号の朝日山は、朝日寺の流れをくむ(併合した?)ことを示すため名付けられたのではないかと考えています。
また、現在、平等寺(因幡堂)にある二体の十一面観音座像は、もともと北野天満宮に祀られていたものといわれています。 |
更新日:2022/02/04