七佛藥師 | 増補語林倭訓栞 明治31年(1898) 原典:撮壌集 享徳3年(1454) |
撮壌集 | 現在 | |||
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第一 | 太秦 | 廣隆寺 | 推古天皇ノ御宇聖德太子建立 | 広隆寺 |
第二 | 山門中堂 | 延暦寺 | 桓武天皇ノ御宇傳教大師草創 | 延暦寺 根本中堂 |
第三 | 蓼藏 | 法雲寺 | 聖武天皇御宇行基造立 | 「法雲寺[1]」廃寺 /蓼倉薬師 ※ 大正5年(1916)以降 |
第四 | 六道 | 珍皇寺 | 嵯峨天皇ノ御宇小野篁草創 | 六道珍皇寺 |
第五 | 八幡 | 護國寺 | 同御宇弘法大師建立 | 東寺?[2] |
第六 | 祇園 | 元慶寺 | 陽成御宇圓如草創 | 「観慶寺[3]」廃寺 /薬師如来像は大蓮寺へ
※ 明治初年の神仏分離 |
第七 | 因幡堂 | 平等寺 | 一條院御宇橘行平卿建立釋尊一刀三禮御作安置祇洹精舎云々 | 因幡堂/因幡薬師 |
[1] | 「拾遺都名所図会(巻之二)」の中に以下の記述があります。 「蓼倉(たでくら)薬師 満願寺の北に隣る 本尊は伝教大師の作 坐像一尺余 ・・・ 故に蓼倉山(れいさうさん)法雲寺と号す」 |
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[2] | 「八幡」にあった「護国寺」は石清水八幡宮の「雄徳山護国寺」ですが、嵯峨天皇の代で弘法大師開基となれば「八幡山(教王)護国寺=東寺」と考えられます。 他の古文書には両寺とも登場しており、情報を混同している可能性も考えられます。 |
[3] | 観慶寺(かんぎょうじ)は別名を祇園寺と言い、その寺域内にあった天神堂がのちの祇園社(八坂神社)となりました。 「花洛名勝図会(東山之部一 )」の祇園社の項に以下の記述があります。 「観慶寺 本殿の西にあり 薬師堂といふ」 |
更新日:2014/11/23