法然上人二十五霊場 第一番 |
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浄土宗 本尊 圓光大師(法然上人) |
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法然上人は、長承二年(一一三三)四月七日、稲岡ノ庄押領使・漆間時国の子として生まれられた。 ご夫婦は長い間子宝に恵まれず、近くの岩間観音(本山寺)に参籠祈願され、妻の秦氏は剃刀(かみそり)を呑む夢を見て懐妊し、月満ちて勢至丸[1]が誕生された。 その時、舘(やかた)には紫雲たなびき二本の白幡が飛来し、椋の木にかかり輝き、鈴の音がなり、お誕生をたたえられたという。
九歳の時、父時国は公は源内武者定明の夜討に遭って亡くなられるが、遺言で「汝会稽(かいけい)の恥を思い敵人を恨むこと勿れ、これ偏に先世の宿業なり」と諭され、菩提寺の叔父観覚得業(とくごう)のもとで学問を修業をされ、のちに比叡山に登って出家された。
法然上人四十三歳の時、専修念佛をもって浄土宗を開宗された際、自ら等身大の御像を刻まれ、建久四年(一一九三)弟子の法力房蓮生(れんせい)(熊谷直実)が師法然上人の命を奉じこの地に御像を移し、御誕生の旧邸を寺院に改め誕生寺とされた。 本尊須弥壇の位置は上人誕生の室のあった所、爾来八百年の星霜を経て法灯絶えることなく全浄土教徒の魂の故郷と敬仰されている。 境内には、御両親の御廟、誕生椋の木、無垢橋、産湯の井戸、上人御手植えの古公孫樹など、永き歴史を物語るものがある。
出所:『圓光大師 法然上人御霊跡 巡拝の栞』
≪御影堂(本堂)≫
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≪念佛橋≫
【由来】 法然上人のお弟子となった源氏の荒武者熊谷次郎直実は建久四年(一一九三年)法然上人御自作の御木造(現在誕生寺の御本尊)を背負って熊谷入道自らの弟子数人を連れてはるばる上人の御誕生地であるこの地にたどり着き、上人のかつての館を目前にして到着の喜びとその感激に号泣してこの橋の上で天地も裂けんばかりに念佛を唱えつづけたと伝えられる橋で、それ以後この橋を熊谷入道の念佛橋という |
[1] | 勢至丸(せいしまる)は法然上人の幼名です。 |
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更新日:2015/03/03