聖徳太子御遺跡
第一番
こう りょう ざん し てん のう じ
荒陵山 四天王寺
和宗 総本山
本尊 救世観音菩薩
納経題字太子髻中四天王
住 所
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備 考聖徳太子建立七大寺の一つ

日本最初の官寺

 「もしもこの戦いに勝たせていただけるなら、必ず護世四王のために寺を建てます」。

 蘇我・物部の戦いで請願した聖徳太子は、その誓いを果たすために物部守屋が支配していた民と屋敷地を当てて護世四王を祀る寺を建立した。

 護世四王とは仏界を守護する神で、東方を持国天じこくてん、西方を広目天こうもくてん、北方は多聞天たもんてん、南方は増長天ぞうちょうてんが守護するという。 この四天王を祀ったから、寺は四天王寺と呼ばれた。


 崇峻天皇5年(592)、暗殺によって非業の死をとげた崇峻天皇の後、敏達天皇の皇后炊屋姫が推古天皇として即位(593)した。 天皇は甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に立て、さらに摂政として国事も託した。 天皇が自分の長男の竹田皇子をさしおいて太子を選んだのは、太子の才幹を見込んで崇峻亡き後の難局打開の任を託したのだろうといわれる。

 摂政の聖徳太子はその元年、難波の荒陵あらはかに仏教寺院を建立した。 これが創建1400年余の歴史を持つ、日本最初の官寺・四天王寺である。

 四天王寺は、最初から現在地に建てられたという説と、約3キロほど北東の玉造たまつくり付近に建てられたものが後に現在の場所に移されたという説がある。 『日本書紀』の用明天皇2年(587)と推古天皇元年(593)の記事の両方に四天王寺を造ったとあることや、『聖徳太子伝暦』に玉造の岸から荒陵(現在地)に移したとあることから移築説が有力だとか。

 この四天王寺が創建された後、各地に豪族の氏寺が盛んに建てられるようになっていった。 そして推古天皇2年(594)には「三宝を興隆させよ」との詔もあった。 三宝とは仏、法、僧のこと。 ここに国家が公的に仏教信仰をすすめる方針を宣言し、日本に仏教が根付いていくことになる。

出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋

更新日:2019/05/06