聖徳太子御遺跡 第二番 |
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高野山真言宗 本尊 聖徳太子十六歳像 |
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蘇我・物部の合戦
八尾市の太子堂というところに、大阪府民から「下の太子」と呼ばれて聖徳太子信仰の中心のひとつとなっている大聖勝軍寺がある。 門前には「聖徳太子古戦場」と彫られた大きな石碑が立っている。
仏教の伝来以来、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の2代にわたる激しい対立は、敏達天皇14年(585)に天皇が崩御すると、その継承者を巡ってさらに深まった。
馬子軍には、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)をはじめとする諸皇子と大半の豪族が従い、守屋の本陣の八尾に進軍する。 このとき14歳(『伝暦』では16歳)だった太子も、年少児の髪型の束髪をして従っていた。
一方の守屋軍は一族郎党のみとはいえ、古代からの軍事専門の氏族だ。 兵は強く、馬子軍は押され気味だった。 太子の身辺にも敵兵が迫る。 逃げまわるうちに、太子が椋の大木の前に来ると、幹が2つに裂けて空間ができた。 太子がそこへ飛び込むと幹は閉じて太子を隠し、敵兵が引き上げるとまた開いた。
こうして難を逃れることができた太子だが、もしかするとこの戦いは負けるかも知れないと思った。 そこで椋の木の枝を切って側近をモデルに四天王の像を彫り、 「もし勝たせていただけるなら、必ず護世四王のために寺を建てます」 と誓った。 馬子も仏教を広めることを誓い、軍を立て直して進撃した。 馬子軍の士気は大いに上がり、守屋もついに力尽きて倒れた。
勝利の後、太子は四天王寺の創建にかかり、また命を救ってくれた椋の木の下にも一宇の堂を建て、自分の髪を植えた像を刻んで納めた。 それが大聖勝軍寺である。
境内に入ると、すぐ右手に「神妙椋」という二つに割れた幹と根が形を残すだけの椋の木がある。 太子が身を隠した椋だと伝わる。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪山門≫
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≪本堂≫
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更新日:2019/09/22