聖徳太子御遺跡 第三番 |
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真言宗御室派 本尊 十一面観音菩薩 |
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仏法の広まり
昭和53年(1978)、近鉄道明寺駅近くの三ツ塚古墳の堀跡から古代の運搬具の「修羅」が発見された。 このあたりは古墳の築造などにたずさわっていた渡来系氏族の土師氏が本拠地としていたところで、今も「土師の里」の地名が残る。
その発掘現場からわずか200メートルほどのところに、尼寺の古刹道明寺がある。 土師連八島
道明寺は土師氏の氏寺だったことから、はじめめ「土師寺」と呼ばれた。 延喜元年(901)に土師氏の後裔菅原道真が大宰府に左遷されるとき、ここの住職だった叔母の覚寿尼を訪ねて自刻の像を残した。 歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」では、このとき覚寿が道真の養女苅屋姫を鶏の伏籠に忍ばせて父娘の別れを演出し、道真が「啼けばこそ別れもうけれ鶏の音の鳴からむ里の暁もかな(鶏が啼けば別れを急がねばならない、いっそ鶏の啼かない里の暁が望ましい)」の歌に託して別離を惜しむ場面が知られる。 また寺名も道真の号「道明」をとって現在の「道明寺」と改められた。
本尊の十一面観音立像がその折に道真が残した自刻の像と伝える。 檜の木肌の美しさを活かした約1メートルの一木造の像で、細部に至るまで緻密な彫技が施され、藤原時代初期の檀像彫刻の代表作として国宝に指定されている。 豊かな量感に満ちたその美しい姿は、いつまでも見飽きない。 また、本堂左奥に安置されている聖徳太子像も、作者は不詳だが旧国宝に指定された秀作である。
古代の土師寺は、隣接する天満宮を含めた広大な境内に五重塔や金堂などをはじめとする四天王寺式の七堂伽藍が並ぶ大寺だったといわれるが、たび重なる火災に遭い、さらに明治時代の神仏分離で現在の地に移された。 天満宮の南約50メートルのところに残る巨大な五重塔心礎の遺構が、往時の面影をわずかに伝えている。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪楼門≫
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≪本堂≫
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更新日:2019/09/22