聖徳太子御遺跡 第四番 |
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高野山真言宗 本尊 薬師如来 |
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牟原の宮
古市駅から東へ一筋の細い道が延びる。 往古、日本の玄関口だった難波津と飛鳥の都を結んだ日本最古の国道竹内街道だ。 その街道を少し行くと、「右大坂、左大和、すぐ高野山」の石標がある四ツ辻で石畳の道と交差する。 京都から高野山に通じる東高野街道で、これを北へ向かい、すぐ東の小道を入ると西琳寺に達する。 門前には「本朝仏事最初、本尊三国伝来釈迦如来」「欽明天皇二十年草創、桓武天皇延暦中再建、向原山西琳寺」の二本の石柱が立っていた。
寺伝によると、欽明天皇13年(552)に仏教が伝来したとき、大臣の蘇我稲目がこの地に初めて仏寺を建立して「向原寺」と称した。 あるいは、我が国に漢字をもたらした百済の学者王仁を祖とする西文氏の阿志高が欽明天皇20年(559)に造立したものだという。
『日本書紀』によると、仏教の受入れをめぐって蘇我稲目と物部御輿らが論争し、天皇の裁断によって賛成派の稲目が小墾田の邸を祓い清めて寺としたと記される。
しかしこの記事には、日本で最初の寺となった稲目の「向原の邸」がどこにあったかは書かれていない。 後に推古天皇が即位した豊浦宮があった奈良県明日香村の向原寺の縁起は、もと稲目の向原の邸を皇居にしたものだとする。 ところが西琳寺も日本最初の寺だという。 これはどうしたことだろうか。
『書紀』の仏教公伝の年は、編者が改作したもので疑わしいともいわれる。 むしろ書紀よりも古い「元興寺伽藍縁起」や「上宮聖徳法王帝説」などが記す欽明天皇7年(『書紀』 の宣化天皇3年・538)とみる方が妥当だというのだ。
西琳寺こそ稲目の向原の邸であり、その娘の堅塩媛の生家であり、その子の大大王の後宮・牟原宮だったのかも知れない。 詳細は不明だが、西琳寺は仏教伝来の由来を伝える寺の一つであることは確かだ。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪西門≫
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≪本堂≫
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更新日:2019/09/23