聖徳太子御遺跡 第十二番 |
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浄土真宗本願寺派 本尊 阿弥陀如来 |
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仏教の伝来
奈良県明日香村の飛鳥歴史公園にある標高148メートルの甘橿丘[1]は、古代の政治・文化都市であった飛鳥を一望する絶好の地だ。 その北麓に向原寺が立っている。
向原寺は、日本に仏教が伝来したとき、蘇我大臣稲目が仏像を安置した向原の邸、いわば日本最初の寺のあったところと伝えられている。
「仏教戦争」とも呼ばれる物部・蘇我の争いは、二度とも廃仏派の物部氏側が勝つ。 しかし政治力ではすでに蘇我氏が上回っていた。 両者の確執は3年後に本物の戦争に発展し、物部氏は滅んで蘇我氏が朝廷に権勢を確立し、やがて日本に仏教が根付いていくことになる。
向原寺は、欽明天皇のときに物部尾輿に焼かれた蘇我稲目の向原の邸跡と伝え、後に推古天皇が即位し、厩戸皇子(聖徳太子)が摂政として政務をとった豊浦宮が造られた。 寺の門前に「豊浦宮址」の石碑が立っている。 昭和34年(1959)の発掘調査によって、当時の宮跡遺構が発見され、庫裏の庭にその一部が公開されている。
そして推古天皇11年(603)、北に接して小墾田宮が造られ、豊浦宮は蘇我氏に下賜されてまた寺が建てられた。 広厳寺、桜井尼寺、豊浦寺などと呼ばれた日本最初の尼寺といわれる。 金堂、講堂、塔婆などを完備した一大伽藍が甘橿丘の麓に甍を並べた。 しかしその後は衰退し、現在の本堂は大正年間に再建されたもの。
寺の横に、尾輿が奪った仏像を捨てた難波の堀江と伝える「なんば池」がある。 後にこの仏像を、信濃の本田善光が拾って祀ったのが長野の善光寺だという。
また馬子の石川精舎は、向原寺から西へ1キロメートルほど行った石川池(剣池)のやや西南、橿原市の旧石川村落にある本明寺(無住)がその跡とか。 権勢を誇った馬子のイメージとはほど遠い小さな古びたお堂があり、その横に土地の人から「馬子塚」と呼ばれる無銘の五輪塔が、落陽を背に侘しげに立っていた。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
≪山門≫
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≪本堂≫
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≪なんば池≫
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[1] | 「甘樫丘」のはずですが、出所の原文通り「甘橿丘」と表記します。 |
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更新日:2019/09/23