聖徳太子御遺跡
第十一番
あす か でら
鳥形山 飛鳥寺
真言宗豊山派
本尊 釈迦如来
納経題字止利佛師丈六釈迦
住 所
電 話
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備 考

馬子の寺

 飛鳥大仏で知られる飛鳥寺は、小さな本堂と観音堂、それに鐘楼という慎ましい佇まいの寺だ。 しかしその創建時は壮大な伽藍を持つ日本最初の本格寺院で、四天王寺とともに日本の仏教の中心的存在だったと伝えられる。


 崇峻天皇元年(588)、馬子は飛鳥に本格的な寺を造り始める。 ライバルの廃仏派はもういない。 誰はばかることもなかった。 馬子の招請に応じて百済から寺院建築者が来日、3年(590)には材木を山に採り、同5年(592)には仏堂と回廊工事が起こされた。

 しかしこの年、前代未聞の事件が起きる。

 崇峻天皇は皇位にはあったが、政治の実権は馬子が握り、天皇の不満は日毎に高まっていった。 ある日天皇は、献上された猪を見て、「この猪の首を斬るように、嫌な男の首を斬りたいものだ」と口走ってしまった。

 これを聞いた馬子は怒った。 天皇は密かに武器も集めているという。 そこで馬子は、東国からの調みつぎ(租税)を献上する偽りの儀式を設け、何も知らずに出席した天皇を配下の東漢直駒やまとのあやのあたいこまに殺させた。 史上唯一の臣下による天皇暗殺である。

 崇峻天皇の後は、敏達天皇の皇后の炊屋姫が即位した。 初の女帝・推古天皇である。 天皇は厩戸皇子(聖徳太子)をわが国初の摂政に任じ、太子と大臣馬子に国政を委ねた。 天皇も太子も蘇我氏の血を引く。 ここに、馬子、推古、聖徳太子による蘇我王朝ともいえる時代が確立することになる。

 そういった間にも馬子の寺の造営は進んだ。 推古天皇元年(593)には仏舎利を納めた塔の心柱が建てられ、4年(596)に四天王寺や法隆寺の数倍もの面積を持つ日本最初の本格寺院が完成した。 「法興寺ほうこうじ」また「元興寺」とも呼ばれた。 いまの飛鳥寺である。

出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋

≪山門≫
≪本堂≫
≪飛鳥大仏(釈迦如来像)≫
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更新日:2019/09/23