聖徳太子御遺跡 第十番 |
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浄土宗 本尊 阿弥陀如来 |
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名工・止利仏師
蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台古墳から、飛鳥川沿いに奥飛鳥の稲淵や栢森へ行く道を辿ると、坂田に通じる道の分岐に「坂田金剛寺址」の石碑があり、坂道をどんどん登って行くと金剛寺が鎮まっている。 飛鳥寺の大仏を造った名工・鞍作止利一族が建立した坂田金剛寺ゆかりの寺である。
仏教は欽明天皇のときに公伝され、蘇我と物部の戦いを経てやっと日本に根を下ろすことになったというのが常識になっている。 しかし、実際には公伝以前にすでに渡来の人々が私的に伝え、密かに信仰していたともいわれる。 坂田金剛寺も、継体天皇の16年(522)に朝鮮半島(中国南朝の説もある)から司馬達等が来日し、飛鳥の坂田に草堂を造り、仏像を祀ったことに始まるという。 村人たちは見慣れぬ仏像を「大唐神」と呼んだとか。 この司馬達等が鞍作氏の始祖で、止利仏師の祖父に当たる。
推古天皇の13年(605)、天皇は聖徳太子や蘇我馬子大臣、諸王子らとともに誓願を立て、止利に命じて1丈6尺の銅仏と繍仏を各1体造り始めた。 仏像が完成したのは翌14年(606)で、銅の仏像は法興寺(飛鳥寺)の金堂に安置されることになった。
ところが、その仏像は金堂の戸よりも高くて入れることができなかった。 多くの工人たちは相談して戸を壊して入れようといったが、止利が工夫して戸を壊すことなく運び入れた。 これを聞いて喜ばれた天皇は、止利に詔して、大仁(十二冠位の第三)の位と近江の国坂田郡の水田20町を下賜した。 しかし止利はこの田を私有せず、寄進して飛鳥の坂田に天皇のために「坂田金剛寺」を建てた。
現在の金剛寺と坂田金剛寺との関わりもはっきりしないが、坂田寺が火災に遭って金剛寺の門前に移され、それも焼失してその仮堂として建てられたものが現在に至ったらしいと伝えられている。 仮堂の頃は天台宗の寺だったが、その後真言宗となり、さらに浄土宗となって550年が経つという。
出所:『聖徳太子の寺を歩く』から抜粋
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≪本堂≫
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≪坂田金剛寺跡≫
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更新日:2019/09/23