菅公御伝記 p74 - 80
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公薨去の四十年、朱雀天皇天慶五年七月十二日、右京七条坊に住む多治比文子といふものに神憑あり、右近の馬場は遊覧せし地なり、彼処[1]を構へて潜寄の便を得さしめよとありければ、文子之を営まんとすれども、身貧賤にして思ふに任せず、て己が家のりに瑞籬を建てゝ私に祀ること五年に及べり。 また村上天皇天暦元年三月十一日、近江比良の神官良種が子の太郎丸といへる七歳の童に神憑あり、我今より居らんと欲する地に必ず松を生ぜしむべしと、やがて一夜の中に数千本の松、北野の右近馬場に生ひ出でたりと伝へらる、かゝりしかば良種、北野朝日寺の僧最珍と共に力をせ心を一にして、其の歳六月九日神殿を造立し、天満天神と崇め奉る、これ北野神社の起原なり。

かくて後、神殿は数度の回禄にも罹りしが、村上天皇天徳三年に至り、右大臣藤原師輔卿〔貞信公忠平卿の子〕神殿屋舎を増造してより、規模大にまり、霊威日に新なりと云ふ、その天満天神の尊号は、或は天満大自在天神とも称して、既に太宰府にてはかに奉りしものなり。[2] 之を天満宮天神と称し奉ることは、一条天皇永延元年八月五日〔薨後八十四年〕の勅祭の宣明文にあるを始とす、元来臣下の霊を祭る社は地祇に属すれども、天神の部に入れ敬い給ひしは、実に公より始まれり。 爾来公けの称号となりて天満宮と称へ奉りしを、明治維新の後北野神社と改められたり。

本社はその始め私祭なりしも、歴朝の崇敬重きを加へて官祭となり、一条天皇正暦二年伊勢太廟以下十九社[3]の中に定められ、明治四年五月十四日官幣中社に列せらる。 今の社殿は後陽成天皇慶長十二年右大臣豊臣朝臣秀頼卿、父太閤の遺命に依り造営せられたるものなり。


北野神社の図

祭礼は八月五日の例祭を主として、諸種の祭礼年毎に三十五回あり、社殿御宝物中にある古祭礼の図を見ても、其の盛大なること想像するに余りあり。 殊に一条天皇寛弘元年臨幸ありしこのかた、屡〻歴代天皇の行幸あり。 又武将の尊崇も極めて厚く、して孝明天皇元治元年の臨時祭は頗る壮厳を極めたりといふ。

北野万灯は毎五十年御神忌に挙行せらるゝ式典の最も盛観なるものにして、世上にては御神忌大礼を以て唱へず、に北野の万灯を以て口碑に伝ふる程壮観を極むるものなり。 古の事は詳かならず、近世嘉永五年二月二十五日、九百五十年の御忌なるを以てこの挙あり、上朝廷を初め奉り、下一般庶民に至るまで、思ひ/\に寄進することにて、一日二万七千灯を数へしことあり、灯明は二十五日の間総て五十六万六千五百灯なりき。 またこの日ごろ遠近の国々より参詣せしもの旅宿の人別帳のみにても十八万七千四百人に及べりと云ふ。

この後は明治三十五年一千年祭の時、三月二十五日より五月十三日に至る五十日間に古例に準じてこの式を行はれ、この時も灯明の外に詩歌の披講、俳諧、連歌、弓術、茶の湯、舞楽、神楽、湯立舞など種々の催しあり、灯明は毎日午前、午後一万灯宛総計百万灯をかゝげたり、其の大祭の当日にはかしこくも朝廷より幣帛を捧げられ、又五十日間を通じて参詣人五百万人を下らざりしと云ふ。

かくの如く太宰府、北野等に於て公を祭祀して以来、公の徳を追慕するもの各地に神社を創建し、徳川時代には書道の神として、殆ど各戸奉祀するの有様なりしが、明治維新後神社整理の関係より、一村一社の制を取りし府県ありて、社数も減少するに至れり。 然れども明治四十年の調査にる全国天満宮の数は、四千二百七十七社にして内官幣社二、府県社三十、郷社百九十三、村社四千五十二、私社数千、就中大分県最も多く五百七十六社、北海道庁下最もく僅に四社、これ等四千余社の中、公のみを祀れるもの二千五百九十三社にして、他は公を主神として他の神を合祀するものあり、或は他の神々の中に公を合祀するものあり、口碑文書り由緒伝はり、千有余歳の久しき祭祀絶えざるものくも五十社を算すべし。 公の祠堂は独り内地に於て奉祀せらるゝのみならず、琉球古米村に天満宮あり、朝鮮に漢江社あり、南洋如法国の菅原護謨園に菅原神社あり。


如法国菅原神社の図

公の遺徳を追慕するもの詩に、歌に、文に、画に其の徳を讃美し、御影像の如き其の数幾十百万、く各地各戸に分布せられて敬慕の表象となり、編者の如きも既に五百有余種の御影像を蔵せり。 世間に御自作と称し、或は藤原時代の画家の手に成りたると称するものあれども、確証のすべきなし。 北野天神根本縁起、北野天神縁起、松崎天神縁起、荏柄天神縁起等は、鎌倉時代の代表的作品にして、現存するものゝ中由緒正しきものなり、後世皆範を之に取る。 御影像鳥羽天皇〔公薨後約二百年〕御制定の硬装束によれるもの多く、公御在世時代の服制を考証して画きたるもの極めてし。 清公卿が嘗て道破せられたる、儒仏其の真理一なりの思想は、宋元時代彼の地に於ても唱道せられ、それがまた鎌倉時代吾国に流伝し、室町時代に入り、五山文学の隆昌と共に、盛に宣伝せられ、其の表現の一端として、渡海天神なるもの画かれたり。 当初御影像の多くは土佐派の手に成り、縉紳富豪の信仰標識、若しくは愛翫に資したるに過ぎざりしが、徳川時代に至り、浮世絵の板画を廉売するに及で、始めて民衆化せられ、寺子屋教育に信仰の対象となりしより、いやが上にも天神の信仰を加ふるに至れり。

公に関する著作亦からず、北野社の宮仕に宗淵法師なるものあり、博覧強記学内外古今に渉り、文政の初年より比叡、大原其他の古社名刹はいふも更なり、名門貴族の蔵書を閲覧し、各地を遍歴して、く天満宮の古跡を訪問し、到る処の社記縁起は勿論金石詞章、断片零墨と雖も必ず之を収集し、南船北馬三十年の久しきに渉りて編集せるもの北野文叢是れなり。 収むる所遺文部二十種、紀文部六十三種、抄文部二百七十一種、雑文部一百四種、計四百五十八種にして、当時にありて、公に関する文書は殆ど網羅せりと云ふべし。 偶〻漏れたるもの、又は爾後の出版になるもの約一百五十種、編者の手に収集し得たるを以て総計六百八種となる、蓋し今後尚幾多著作の発見せらるゝものあるべし。

[1]禿]が正しいように思われますが、原文通り[]と表記します。
[2]味酒安行によって太宰府に祀られたのは延喜5年(905)で、右近の馬場(北野)に祀られたのは天暦元年(947)です。 この伝記に記載はありませんが、朱雀天皇の勅によって吉祥院に祀られたのが承平4年(934)です。
[3]伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日、大原野、大神、石上、大和、広瀬、竜田、住吉、丹生、貴布禰の十六社に吉田、広田、北野の三社が加えられて、十九社になりました。 さらにその後、梅宮、祇園、日吉が順次加えられて、二十二社(上七社、中七社、下八社)となりました。

更新日:2021/04/13