菅公御伝記 p69 - 74
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公の左遷後、時平卿は鋭意財政の革新に努力せられ、延喜二年三月延喜格なるものを発布せられたり。 其趣旨善ならざるにあらず、其の文辞亦厳烈を極むとは云へ、事実は現行制度の弛緩せしものを緊縮せんとするに在りて、其の弛緩の由りて来る泉源を清むることをなさず、単に励声疾呼して其の末流を治せんとせられたるは惜むべし。 藤原氏は多年の間其の宗族太政大臣となり、傍族は左右大臣となり、皆顕要の地を占め、官職のある所位田あり、功田あり、位田、功田は初め其の一身に止りしものが、いつしか之れを子孫に伝ふるに至り、大化、大宝の田制は平民に口分田を分つ一事の外破壊せられ、藤原氏の食邑殆ど天下にくなれり。 夫れ諸院、諸宮、顕官等が田地を地方に有するを禁ずる能はず、いかで其の稲穀を地方に貯蔵するを禁ずるを得ん。 其の家人にを免除して、いかで庶民の其の蔭に隠るゝを禁ずるを得ん。 荘園の国家に害あるを知り給はゞ、自ら進んで之を辞するのみならず、何故に断然之を禁止せられざりしか、されば、時平卿は政治の大本に通ぜずんば、ち自ら節することを為さゞるの人なり。 年少気鋭一時の功名を貪り、革新の名をひたるのみにて、大半徒法空文に終り、実は公の深謀熟慮ある保守政策と何等軒輊する所なく、寧ろ却て事局の紛糾を招きしこそ遺憾なれ。

時平卿一面に於ては清行の諫言を容れ、公の門下生を排斥することを中止し、其の師大蔵善行七十の賀宴に託して時の文士を饗し、其の歓心をひ、法皇の御心を慰め奉らんが為には、天皇仁和寺に行幸あらせられ、時平卿等も之に扈従して、遂に法皇の御寵遇をも得るに至れり。

時平卿の政治的才能は、一時を弥縫し得意なるべき筈なりしが、天変地妖りに起り、群盗四方に出没して、凶焔諸方に及び、又雷火の厄難あり、誰云ふとなく、公の怨霊祟りをなすなど唱へければ、流石に時平卿の党与も良心の呵責を免れざりしならん。 それかあらぬか定国卿は六年に、菅根卿は八年に、時平卿は九年に、卿は十三年に薨去せられたり。 公左遷以来十数年間に公を讒せしと称せられたるものく死去しければ、公の徳を慕ひ、公の冤罪を嘆くもの其の真意を解せず、りに天変地妖を公の怨霊然らしむるなりと付会流説し、僧侶は之をあほりて、仏教伝播の用に供せしこそうたてき限りなれ。 然かはあれども、是が為に公の威徳はいやが上にも喧伝せらるゝことゝなりぬ。 かくて後漸く其の冤罪たりしこと明なるに至り、二十三年四月二十日詔して 「故太宰権帥、従二位菅原朝臣、在朕童蒙、営其侍読、自-従宸宮之日、至宸位朝、久為近臣、非勤苦、而身従謫官、命殞遐鎮、雖多歳、何有相忘、故贈本職、兼増一階、爰示旧意、以慰幽霊、云々」 とて本官右大臣に復し、一階を進めて正二位を贈り、また昌泰四年正月二十五日の左遷の勅書並に外記の文書等は、悉く焼却せしめらる。 されば、今日に至り左遷の消息を詳にするを得ざるは是非なき次第なり。 それより七十年を経て、一条天皇正暦四年五月二十五日散位従五位下菅原幹正〔公の曽孫〕を勅使として太宰府に遣はされ、左大臣正一位を贈りたまひ、同年閏十月二十日重ねて散位従五位上菅原為理〔幹正の姪[1]〕を同じく太宰府に遣はされ、太政大臣を贈りたまひぬ。 詔に 「贈以太政大臣、蓋増裒賢之故也、宜人臣之職、式照泉壌之蹤」 の文あり。 嗚呼暗雲晴れて月光輝き、邪は遂に正に勝たず、誠に喜ばしき限なり。

御子息の跡詳ならざるもの多し、長子高視朝臣はきに土佐介にせられたりしが、延喜六年冬勅して右小弁に復官し、位一級を進めて京師に帰らしめられたり、爾余の弟君等も蓋し同時に復官ありしならん。

高視朝臣の長子雅規卿三世の孫定義卿の長子是綱卿は、高辻子爵の祖にして正系なり。 定義卿の第二子在良卿は唐橋子爵の祖、是綱卿三世の孫為長卿の第四子高長卿は五条子爵の祖にして、高長卿の孫茂長卿は東坊城子爵の祖なり。 高長卿十三世の孫為庸卿の第二子長時卿は清岡子爵の祖にして、為庸卿の第三子長義卿は桑原子爵の祖、是綱卿二十五世の孫以長卿の子信厳卿は西高辻男爵の祖なり。

公の第四子淳茂朝臣才藻流麗頗る公の風あり。 大江匡房嘗て曰く、儒家にして家声さゞりしものは、唯都在中と、菅原淳茂のみと、以て其の人を知るべし。 文章博士大学頭式部権大輔に任ぜられ、従五位下に叙せらる。 其の子在躬朝臣は従四位上勘解由長官文章博士たり。 その子輔正朝臣は文藻を以て名声あり、文章博士より参議に任ぜられ、民部大輔を兼ね、正三位に叙せらる。 嘗て太宰府にありて安楽寺に多宝塔を創建せらる。

公の長女衍子女御は、法皇御出家の後落飾して尼となられ、中女従五位上寧子は典侍、尚侍、尚膳等に歴任せられたり。

高視朝臣の第二子文時卿は文才博洽にして、名声当時に震ひ、文章博士となり、従三位に叙せられ、世に菅三品と称せらる。 又朝臣八世の孫に為長卿あり。 文章博士より参議に任じ、勘解由長官を兼ね、正二位に叙せられ、八十九歳にて後嵯峨天皇寛元四年去せらる。 卿書を善くし、和歌に巧みに、朝廷の典故に練達せられしかば、縉紳の士推して国家の重器となせり。 嘗て鎌倉平政子の請により、貞観政要を仮字に訳せられ、又北野縁起を著せり。 其の他公のにして、文学を以て顕れたるもの頗る多く、菅家には前後文章博士を出すこと三十三人に及べり。

公のにして血統連綿たるもの華胄にありては高辻、唐橋、五条、東坊城、清岡、桑原の六子爵及び西高辻男爵あり、武家にて公のと称するものに前田侯爵、久松伯爵、松平子爵、柳生子爵あり、其の他大隈侯爵、副島伯爵も亦其の流を酌むと称せらる。 公の余栄あることかくの如きは一すぢに君を思ひ、国を思ひたまふ誠忠の余光とや申さんかな。

[1]「甥」の誤記だと思いますが、原文通り表記します。

更新日:2021/04/13