菅公御伝記 p58 - 69
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公は幼より蒲柳の質にて、短躯なれども風度清爽、音声麗朗なり。 御性格は至誠にして高華霊秀、忠孝は其の天分なり、伝教弘法両大師の如き宗教家を外にしては、王朝に於ける第一の人格者にあらせられ、謹厳廉直言行をくもせられず、嘗て書斎記を作られ、書斎に乱入して書籍器物を汚損し、或は御稿草を破棄するものあるを誡められ、巨勢文雄が其の門人清行を推賞して、才能時輩に超越せりと申されけるを冷笑せられ、又菅根が庚申の節会に礼を失せしを責め、之を撃たれたることあるなぞ数事を捉へて、寛容の徳を欠くと申すものあるは僻事なり。 清行嘗て長谷雄を罵り、不才にして博士たるもの彼が如きを見ずなぞ申せしに、九日の宴に侍し、菊散一叢金と云ふ題下に清行の句 「酈県村閭皆富貨、陶家児子不堂」 長谷雄の句には 「廉士路中疑不拾、道家煙裏誤応焼」 とあり、公は長谷雄の詩を賞せられたるも、清行の詩には一語も加へ給はず、清行不満にへず、帰途其の可否を問はれしに、公は富貨の二字恨むらくは潤屋に作らざりしをと仰せありければ、清行之に服せりと云ふ、清行も、長谷雄も共に公の試験によりて秀才に挙げられたる人、菅根は公の推薦によりて登庸せられたる人なり。 あれば之をし、才能あれば之を挙ぐ、是れ公正仮さゞる所以、いかでか寛容の徳に欠くると申すべき。

扶桑略記と云へる書に、七月宇佐奉幣使清貫の言として、 但帥見気色殊示窮体、前日言意、既似理伏、 其詞云、無自謀、但不朝臣誘引、又仁和寺 御言、数有承和故事耳、 とあるを見て、真に廃立を図られたる如く論ずるものあり、誤れると申さんかな。 公左遷せられたる年、京師に震雷其他の災害ありければ、陰陽繊緯の説行はるゝ時代、良心の呵責あるものには、天変地殃も神罰ならんと恐懼して、宇佐の使ありたるものにて、帰途清貫が公に伺候せしは、煩悶者慰安の口実を得んと欲する讒徒の手段に過ぎず。 是れ既に大日本史に弁明せらるゝ所にして、筑紫にての御詩歌数百編忠誠上を思ふの情言外に溢る、いづくにか不臣の点を見出し得べき。

天皇は実に公の翼賛によりて冊立せられ給へり。 斎世親王の妃も、天皇の尚侍も共に公の御息女なり。 天皇は公を挙げて関白たらしめんとせられたり、其の御信任は遥かに時平卿の上にあり、仮令藤氏を抑圧せんとするも、何を苦んで無謀の大逆を企つる要あらん、ましてその御性格に於てをや、荒唐無稽も甚しと申さんかな。 清貫保則の子、嘗ては公の部下として讃岐権大掾たり、清行の親友にして延長八年清涼殿にて震死せし人なり。

公の文学上に於ける御功績を案するに、王朝時代の文学を代表する偉大なる作家として、盛名嘖々たるが、其の源を探れば、公の曽祖父古人卿延暦の朝に漢文学を鼓吹し、寧楽朝以来の文学に革新を与へられ、祖父清公卿唐より帰朝して文章院を創建し、父是善卿祖業を継承して子弟を薫陶せられければ、碩学鴻儒輩出し、貞観元慶の頃に至り漢文学の流行は絶頂の域に達せり。 其の頃文選と、白氏文集大に行はれ、学者皆範を此れに取りしかば、文は四六駢体、詩は白香山体こそ王朝趣味の特色となれり。 されば公の詩文も時流にもれず、優美繊麗を極め、其の御傑作に至りては、唐代大家にも比肩すべきもの尠からず。 又公の詩才は御天性にして、幾多の名編も続出せしが、殊に筑紫に下られてより、其の御境遇は悽愴悲惨を極め、感慨のしる所発して詩歌となり、往々人をして卒読に堪へざらしむるものありければ、時の文士は古今独歩と感嘆せり。

平安朝後期の文学たる国文学は、寛平延喜の際を一転機として萠芽を生じければ、公は静に其の機運を眺めつゝ、其の発育を助長せられたり。 公の新撰万葉集は、万葉集と古今集の中間に於ける唯一の歌集にして、過渡期の変遷を知る指針となるべく、公の御歌は余技に過ぎざれども、専門歌人にも譲らざる手腕を発揮せられ、又四六文の作風は、後の国文学に如何に多くの影響を与へたるかを思ふ時は、公の文学上に於ける御功績は偉大なりといふばかりなく、公は実に王朝第一の漢詩人漢文作家にして、又国文学の先駆者と申すべけれ。

公は儒に通じ、仏に通じ、道に通じ、而して詩に長じ、文に長じ、歌を作り、楽を知り、最も歴史にしく、又彫刻をなし、書画を能くし、囲碁を好み、或は投壺、射術をすら兼ねたりと称せらるゝに至つては、実に六芸に通じたる稀世の大才とこそ申すべけれ。

公の思想観は、所謂和魂漢才にして、本朝に於て外国の文物を輸入してこのかた、数百年の年月を経るに模倣に努め、未だ咀嚼消化の域に達せず、平安朝初期の頃は、模倣の文明燦然として高潮に達せるも、和魂は日にまし其の光を失はんとせり。 されば、識者之れを憂慮して、国文学は漸く擡頭せんとする時に出でゝ、之れを指導し、又遣唐使の廃止を主張せらるゝなど、公の抱負の一端に過ぎず。 儒仏其の真理一なりとは、祖父清公卿の道破せられし所、神仏其の真理一なりとは、行基伝教弘法諸師の唱道する所、公は其の感化を受け深く身にせられたる人なり。 されば、神儒仏一途の大理想の下に皇国固有の道徳を経として、儒仏の教を緯とし、之を融合同化し、本邦独特の文明を創建せんとせられたるは、先きに聖徳太子あり、後に公ありといふも過言にあらざるべし。 殊に 「神国一世無窮玄妙は敢て窺知すべからず、漢土三代周孔の聖教を学ぶと雖も、革命の国風深く思慮を加ふべし」 と国体の本義を高調し、不磨の訓言を垂れたるは誠に欽仰すべく、よし菅家遺誡は後人の偽作なるにもせよ、公の生涯を通じての行動と、時に詩文に発露せらるゝ所により、公の主張と面目とは全く之れを窺知し得べし。

公は教育家として父祖以来の名家に生れ給ひ、其の門徒数百宛がら朝野に満ち、其名を顕はすものにて藤原道明、藤原幹扶、橘澄清藤原邦基は皆納言に登り、橘君統、平篤行、藤原博文は対策及第し、文章博士紀長谷雄の如きも教を受けたるものなり。 其の他門人弟子諸司にすとは、政敵の公言する所、まして清公卿以来薫陶を受けたるもの多く、公の書斎記に 「先是秀才進士、出此扃者、首尾計近百人」 とあり、後世教育の神として奉祀せらるゝ其の淵源探しと云ふべし。

公は書道の神として祀られ、後には菅家御流と称する書派さへ生ずるに至りしが、公の能筆たりしこと当時の記録に発見する能はざるのみならず、其の真跡と称するもの数多あれども、出所不明にして、又筆跡も同じからず、基経卿五十賀の屏風に公の詩、敏行の書、金岡の画を以て正範は当時の三絶と評せり。 公は小野美材の死に臨み、書道の絶えんことをかれたり。 延喜四年興福寺の寛建法師入唐に際し、吾国文士の文筆を携帯して彼の地に表示せんことを奏請せしに、其の撰に入りしもの公外三氏の詩集と、道風の行草書各一巻なりし。 されば、当時にありて公に卓越せる能筆家ありしことは疑ふべくもあらず。

薨去九十年正一位左大臣を追贈ありしとき 「忽驚朝使排荊棘、官品高加拝感成、云々」 の御託宣ありしと伝へらる。 其の後十五年僧幡慶なるものあり、公と道風とは弘法大師の後身なりとの夢告を得たりと称す。 此の御託宣書なるものは、久しく外記局に保管ありしが、百五十四年後久安三年内大臣藤原頼長卿勅許を得て其の神筆なるものを観覧するに、其の書風頗る道風の筆跡に類似したりければ、公が能筆家の名喧伝せられたるが如く、後には弘法大師道風と公を書の三聖と称し、又嵯峨天皇弘法大師と公とを筆道の三跡と流布するに至れり。 初めは文道の大祖、風月の本主と崇め敬ひしに、戦国時代文道るゝも、流石に書道のみは普及し、遂に書道の神とも尊信せられたるにあらざりしか、公の多芸なる独り書に於て堪能ならずとは推想し能はざるも、道風等と併称すべき能筆家なりと云ふことは研究の余地あるものならん。

公の政治観は儒教より出づ、嘗て為政以徳を賦せられて曰く 「君政万機此一経、乗竜不忘始収蛍、北辰高処無為徳、疑是明珠作衆星も当時の儒学は即ち政治学にして、政治家は即ち儒者なり。 治国平天下の本は修身斉家に在り、修身斉家は正心誠意にあり、上は一天万乗の君を始め奉り、親王、大臣、公卿に至るまで、皆其の身に徳を修め、倫理道徳を以て善政をき、民をして其の治に由らしめ、其の徳に化せしむると云ふことは政事の理想にして、公の如き盛徳の君子は、即ち当時の政治家たる所以なり。 或るものは類聚三代格により、基経卿薨去後の格の数を検して之を執行せし人に分配し、能有卿及び時平卿の宣せし格の数が最も多きを占めて、公の宣せしもの甚だ少ければ、直に断定して其の政治家としての実力を疑ひ、或は無為平凡と称するものあり。 公が政治上の表面に立たれしは、寛平九年七月内覧の詔を受けられしより、昌泰四年正月左遷に至るまで三年半の年月なり。 かも時平卿は首席にあり、公の宣せし格の少き怪むに足らず。 まして公は能有卿とは従兄弟の関係あり、頗る御懇意の間柄なりしを以て、卿が権勢家として表面に立たれし間其の背後に公ありしことは否む能はざるなり。

宇多天皇の藤氏にませ給ひしは、藤氏が常に外戚関係により、或は天子冊立の功を負ひ、専横なりし為なりけり。 故に基経卿に系を有せざる敦仁親王を太子に冊立し給ひ、之に配するに天皇の異腹妹和子内親王を以てせられ、又公の息女寧子は後に召されて入内し尚侍に進まれたり。 是れ皆公の参画せらるゝ所にして他人らず、公は時平卿と共に内覧の臣たり、卿豈に独り専横なるを得ん、進んで公を関白に擬せらるゝに至りしは、政務の統一を期せられたるに外ならざらんも、藤氏に対し、始は警戒防衛周到を極められ、後には之れを軽視せられ、台閣首班の位置を変ずる影響の重大なることに勘到せられざりしは遺憾といふべし。 天皇は時平卿を少年より登庸せられ、遂に台閣の首班に立たしめ、齢正に而立、頗る政務に熟し、其党与も廟堂に充満せり、まして卿の行動其の父祖と異り、何等専横を認むべきものなし。 此の時に当り、仮令公の徳望一世に冠たりとも、之を抜擢して卿の上に置かんか、是れ独り公を火中に投ずるのみならず、累を皇室に及ぼさんこと覩易きの理なり。 夫れ関白は藤氏専横の結果なり、王族たりとも会て之に任ぜられたることなし、公若し関白たらんか、其の志に於て異らんも、其の跡に於て藤氏と異ならず、公の固辞せられ給ひしは当然とこそ申すべけれ。 但だ卿の党与は、公の御寵任日に厚きを嫉視し、之を排擠せんとする志念に切なりしことは、既に察知せらるゝ所、も知て其の任を去られざりしは、に公の誠忠の致す所にして、卿に専横の行為なしとせば、則ち公の牽制によるものとこそ申さん、いかで意志強固ならざるものゝくする所ならん。 政事の積極たり、消極たるは、時の境遇によるものにて、公の時に当り、公の保守政策を無為平凡といはんか、政治を解せざるものなり。 若し論者の所謂無為とは、徳を以て民を化し、平凡とは常道を踏んで隠忍自重赫々の功名なしとの意ならば当れり、其の政治の実力を疑ふに至りては、迷妄も甚しといはん。 宇多天皇の詔に 「菅原朝臣是鴻儒也、又深知政事誰れか之を疑ふものあらん。

更新日:2021/04/13