菅公御伝記 p52 - 58
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権帥とはいへ、素より任務を帯びて赴かれしにあらざれば、太宰府に到着せられしも、その市街だに入り給はず、浄妙院〔今の榎木寺〕といふ市外の一寺院に寓せられ、かくて門を閉ぢて謹慎し、一向にの晴るゝを待たるゝものゝごとくなりき。 いはゆる 「都府楼纔看瓦 色、観音寺唯聴鐘声、中懐好逐孤雲去、外物相逢満月 迎、此地雖身無検繁、何為寸歩出門行」 と、戦兢跼蹐の思に光陰を送られたる実情を見るべし。 「食支月俸恩無極」 とはその自ら懐を述べられたるものなれども、その御事情を察しまつるに、いかに堪へがたきことなりけむ。 然れども、一点上を怨み給ふ御心なく、又奸臣の讒構を憤られしこともなく、政敵の犠牲となりて、天命の否塞を悲まれしのみ、其の御心事の高潔なる讒者愧死せしむるに足る。 実に桃李ものいはず下自ら蹊をなすとかや、反つて四囲の圧迫により一道の霊火爛々としてり出で、忠臣の亀鑑として万世に輝き給ふこそ尊けれ。

筑紫にての御作中、初雁の空にきこえけるに

我為遷客汝来賓、共是蕭々旅漂身、欹枕思-量帰去日、我知何歳汝明春、

いかに堪へがたき事やおはしけむ

海ならすたゝよふ水のそこまても
きよき心は月そてらさむ

あし引のこなたかな多(た)に道はあれと
都へいさといふ人の奈(な)き

四年七月延喜と改元、其詔書を読み古調五言を賦せられ、

元黄紙詔、延喜及蒼生、一為辛酉歳、一為老人 星、大辟以下罪、蕩滌天下清、省傜優壮力、賜物恤 頽齢、茫々恩徳海、独有鯨鯢横〔具見于詔書〕此魚何在此、人 道汝新名、呑舟非我口、吐浪非我声、哀哉放逐者、 蹉跎喪精霊

とあり、数々の公の思ひは、是等の詩歌にておしはかりまつるべし。 居常は精進にて、朝夕法華経を誦せられたまひしこと叙意千言中にも 「微々抛愛楽、漸々謝葷膻」 などと見え、又重陽の御作にも 「菊酒為誰調、長斎終不破」 などあるにて想ひやりまつるべし。

九月十日の詩は最も人口に膾炙して公の誠忠を偲ぶものとなれり。

去年今夜侍清涼、秋思詩編独断腸、恩賜御衣今在此、捧持毎日拝余香

その小男小女のいたいけなるを御覧ありては、暗に臨みて灯燭あり、寒に当りては綿絮ありとて、嘗て京師にて某々公卿の子の零落したりしに比して、天恩を被れることの大いなるをいふて慰められしなど、その御心を想像するだに悲痛に堪へず。


筑紫にて恩賜の御衣を偲ばるゝの図

同月十五日秋夜の御作に

黄萎顔色白霜頭、況復千余里外投、昔被栄華簪組 縛、今為貶謫草萊囚、月光似鏡無罪、風気如刀 不愁、随見随聞皆惨慄、此秋独作我身秋

二年御年五十八夜雨の御作に

春夜漏非長、春雨気応暖、自然多愁者、時令如乖 狠、心寒雨又寒、不眠夜不短、失膏槁我骨、添涙 渋吾眼、脚気与瘡癢、垂陰身遍-満、不啻取諸身、 屋漏無蓋版、架上湿衣裳、篋中損書簡、況復廚児 訴、竈頭爨煙断、農夫喜有余、遷客甚煩懣、煩懣結 胸腸、起飲茶一-椀、飲了未消磨、焼石温胃管、此 治遂無験、強傾酒半盞、且念瑠璃光、念々投丹款、 天道之運人、不-一其平坦

かくの如く御生活難に加へて、御持病の脚気瘡癢再発するさへあるに、唯一の慰安として伴はれたるその小男を亡はれしなり。 秋夜の詩に

床頭展転夜深更、背壁微灯夢不成、早雁寒蛬聞一 種、唯無童子読書声

而して京都御留守居の有様は如何と云ふに、是れより先、読書家の御作あり、ぼ御消息を窺ふことを得べし。

消息寂寥三月余、便-風吹着一封書、西門樹被人移 去、北地園教二レ客寄居、紙裹生姜薬種、竹籠昆 布斎儲、不妻子飢寒苦、為是還愁一レ-悩余

西門樹とは菅家の表門内にある樹木にして、北地園は紅梅殿に当る。 御生活難のためかし家にてもなされしものならん、是れ夫人の御生活の有様なるが、偶々生姜が御手に入りしとて、薬用の為に貯蔵せられ、珍らしく昆布を得たればとて、御惣菜にもせられず、直に竹筒に入れて神饌用に儲蔵せらるゝなぞ、御困難の中にも祭事を大事にし、薬餌の末まで御注意ありて、女々しき愚痴は一言も云はれぬ所に公の御感慨も一層なりしならん。

三年の春に至り遂に病にさへかゝらせたまひぬ。 今を限りとおぼされけむ、自ら謫居中の御作を集め「西府新詩」〔後の菅家後草〕と名づけ、京都なる中納言紀長谷雄卿の許におくられたりければ、卿之を見て天を仰で嘆息し、其の藻思絶妙天下ぶものなしといへり。 謫居春雪の題にて

盈城溢郭幾梅花、猶是風光早歳華、雁足粘将疑帛、烏頭点著憶家、

是れぞ筑紫に於ける御絶筆なり。 御病はいよ/\進みて、今はくよとおぼしめされける時、座に侍するものに三条の御遺言ありたり 「余外国死を得る者を見るに、必ず骸骨を故郷に帰す、思ふ所あるに依つて余は此の事を願はず。 吉祥院十月の法華会は累代の家事、慎みて之を怠る勿れ。 聞く淳茂学を嗜み、偏に業を遂げんことを思ふと可也、唯だ文章を労すべし、必ずしも及第をむる勿れ」 と光風霽月名利の念を超脱して延喜三年二月二十五日五十九歳を一期として謫所に薨去せられたり。 左遷以後二年一ケ月なり、不独人啼鬼亦啼あゝ悲いかな。

そも公は承和十二年六月二十五日菅原院にて御誕生あり、御詩作の始は斉衡二年月夜見梅花の題にてありき。 又昌泰四年正月二十五日太宰権帥の宣旨を蒙り、家を離れ給ふとき、梅の御詠歌あり、延喜三年二月二十五日に薨去せられ、しかも梅花の詩御辞世となりしこといかなる因果おはしけむ、今に至るまで梅といへば公を連想し、公といへば二十五日を連想すること由縁ありといふべし。

て御遺骸をば三笠郡四堂の辺にめんと、浄妙院より轜車を送りけるに、牽ける牛途中に倒れて進まざりければ、已むことを得ず、その処を御墓所として御遺骸を葬りまつりぬ。 これぞ今の太宰府神社往昔安楽寺の御廟所なり。 五年八月十九日味酒安行といふもの、此に始て社を建て公を祀り奉る。 これ太宰府神社の起源にして、十九年藤原仲平卿〔時平卿の弟〕社壇を造立し、円融天皇永観二年勅命により、中門一宇と回廊を始め常行堂、宝塔坊を建てられ、此の後相次で世々の天皇の勅願にて、堂院多く造らせ給ふこと挙げて数へがたし。 現在の神殿は、一千年祭の時菅公会の建立せしものなり。 抑も味酒氏巨勢文雄の子と伝へらるゝが、筑紫に来り忠勤を尽せるは、蓋し公の門下生なりしならん。 公の薨後六十二年を経、百余歳の寿命を保ち神廟を守護し、子孫世々神職を奉じて今に至れるは、奇特と云ふも愚なり。


太宰府神社の図(文化文政頃)

更新日:2021/04/13