菅公御伝記 | p46 - 52 |
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四年正月に至り公は従二位に進み給ふ。 是れより先、公の盛名を忌むもの、機を見て公を陥れむとし、殊に左大臣時平卿は、公に比すれば年齢に於て父子の如き差がある上に、法皇も天皇も公をのみ信任せらるゝが如き状あり、又年少気鋭大に積極的政策を施行せんと欲するも、老熟の公に牽制せらるゝを憤りし折も折とて、彼の朱雀院の秘事さへ、直に時平卿の鼓膜に響きたれば、今は殆ど抑え難きまでに昂奮せられ、其の党与源光、藤原定国、藤原菅根諸卿と相結託して、讒構に全力を尽しければ、同月二十五日公は俄然太宰権帥に左遷せられたり。 時に御年五十七なり。 天皇は御年僅に十七、昨年の正月は法皇を共に公を関白に擬せられ、八月には家集の献納を納れて、優渥なる御製を賜はりし程の御信任ありしに、俄然公を退け給ふに至りしは、清行革命の議に恐怖を懐かれし機に乗じ、時平卿等の讒奏あり、殊に其の党与朝に充ち、天皇亦之を如何とも為し給ふを得ざりし御事情ありしならん。 其の一派が聖明を掩い奉り、公を逆臣としも宣下し給ふに至らしめしは、公の御息女が法皇の第三皇子たる皇弟兵部卿三品斎世親王[1]の妃たりしを以て、天皇を廃し奉り、この親王を立てむとする野望ありと讒せしが為なりけり。
公の御出身は一に法皇に依れり、されば勅命とはいへども、元これ冤罪なり、いかで援助を求められずしてあるべき、即ち
流れ由(ゆ)く我はみくすと奈(な)りぬとも
きみ志(し)からみとなりてとゝめよ
の一首を法皇の許に参らせられたり。 法皇も事の意外なるに驚かせたまひ、直に内裏に馳せ入り、事の趣を質さむとせられしも、藤原菅根の命として、左右の諸陣厳かに警固して通し参らせず、仍て草座を陣頭侍従所の西門に敷かせられ、北向して終日おはしましけれども、一向に警戒して入れ奉らず、かゝる状なれば、晩景に至りて法皇は止むなく還御せられたり。 抑も天皇は法皇の皇子なり、しかも未だ御成年にも達したまはず、されば、万機の政は法皇の叡慮に待ちしこといかに多くおはしけむ、故に法皇は其の最も信任せらるゝ公を挙げて右大臣とし、以て事を執らしめたまひしなるべし。 然るに一朝の讒言に依りて、天皇は法皇にも事の旨を詢らせたまはず、直に左遷の勅を下したまひしに至れること、時平卿等の奸智にたける所にして、その反逆といふには法皇も御関係あるかの如く讒し、御父子の間柄御会見ありては事の破れんことを懼れ、諸陣を厳重に警固する等用意周到といふべし、さるにても、一旦万機の政を譲らせたまひし上は、法皇の御権力も勅旨を翻させたまふこと能はざりしは、止むを得ざることゝはいへ、実に千秋の遺憾にぞある。
冤罪の為に貶謫せられしは、御身一人に止らず、二十七日に至りてその御族をも左降せらるゝの不幸を見られたり。 公の御子二十三人おはしけるが、この日長子従五位上行[2]右少弁大学頭たる高視朝臣は土佐介に、次子従五位下式部大丞景行朝臣は駿河権介に、蔵人正六位上兼茂朝臣は飛騨権掾に、正六位下文章得業生淳茂朝臣は播磨国に左遷せられたり。 公の詩に 「父子一時五処離」 とあるは是れなり。 かくて夫人及びやゝ成長せられたる児女は京師に止りたまひ、たゞ幼児女のみを率ゐて筑紫に下らせたまひぬ。 他姓にては右近衛中将源善外微官七人左遷せられたり。
同日太政官は、符を太宰府に下して左衛門少尉正六位上善友朝臣益友、左右兵衛各一人を公の領送使とすべき旨を以てし、且つ任中の雑俸料並に監従は釐務に預らず、前員外帥藤原吉野の例に依りて行ふべく、又山城摂津の国に人馬を給すべからず、其のほか途次の国々も此に准ずべき事を以てせられたり。 名は太宰権帥たれども、その実は赴任に非ずして全く流謫の身の御取扱ひなり、公の御心情いかで悲しからざらむ。 家を出でらるゝ時前栽の梅を見て
東風ふかはにほひおこせよ梅の花
あるしなしとて春奈(な)わすれそ
と詠じ給ふ。 俗説にこの梅太宰府に飛去りしより飛梅の称ありといへり。 さて都門を離れらるゝや、左衛門佐藤原真興は左近走馬近衛十人を率ゐ、勅使として摂津国まで護衛しまゐらせしが、是れより後は憐れなる御一族と、領送使のみにて下向せられたり。
太宰府まで御道中の事は正史に詳ならざれども、伝説に拠れば、河内の国土師の里は御祖先の地にして、そこの道明寺は菅原氏の氏寺なり。 故に公は屡〻此に往来せられ、且つ寺には姨君覚寿尼おはしければ、御別れを告げむとて立ちよらせらる。 夜を徹しての御物語に、鶏さへ鳴きければ 「なけはこそわかれをいそけ鶏のねの聞こえぬさとの暁もかな」 と打誦し給ひて、やがて立ち別れ給ひしと。 又途中より夫人の許におくられける歌に 「君かすむ宿の梢を由(ゆ)く/\もかくるゝまてにかへり見し者(は)や」 とあり。
御旅程は陸路を取られしものゝ如く、播磨の国明石の浦にては駅長のいたく悲めるを御覧ありて 「駅長勿レ驚時変改、一栄一落是春秋」 の連句を示され、叙意一百韻の中には 「伝送蹄傷馬、江迎尾損船、郵亭余二五十一、程里半二三千一」 又拾遺集に公の御歌とて 「あまつ星道もやとりも有なから空にうきてもおもほ由(ゆ)るかな」 とあり。 京都太宰府の間は全国中の大路なれども、当時の事とて橋梁も少く、渡船の便を仮られたるなるべく、沿道に公が船にて着かれしと云ふ口碑の伝はれる所多し。 又一説には難波津より海路を取られしとも云へり。 延喜主計寮式に拠れば、津より太宰府まで海路一千四百三十四里〔今の里程にて百六十六里〕行程三十日と注せらる、されば、途中難風にも遭はれしものか、当時公の立ち寄られしと称へて、公を祭る神社摂津、備前、伊予、豊前、筑前等に十数個所あり。 何れにしても、御旅行中の御艱難は推想するだに悲愴の極みにして 「二月三月日遅々」 とあれば、一定の行程よりも多くの時日を要されしものならん。
さても、京師にては公を貶謫せしめられし後、三社に奉幣して事の旨を告げられ、源光卿は右大臣となり、藤原定国卿は右大将に任じ、左大臣時平卿の勢力は、俄に上下に及び、その他儒臣の公の盛名を忌みし者どもは、愁眉を開くことゝなりぬ。 之に反し公の門人弟子諸司に半せしが、之を追放せんとの議ありしを以て、皆其の災を蒙らんことを懼れ、戦々兢々たる有様なるを以て、清行は時平卿に上書して之を止めたり。
[1] | 「齊(斉)世親王」が正しいはずですが、原文通り「齋(斎)世親王」と表記します。 |
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[2] | 通常、官と位が相当する場合は「中納言従三位某」のように官・位・姓名の順に書き、官と位が相当しない場合は位・官・姓名の順に書くそうです。
そして、位が高く官が低い場合は位と官の間に「行(ぎょう)」の字を加え、逆の場合は間に「守(しゅ)」の字を加えるそうです。 高視朝臣の位(従五位上)は官(右少弁=正五位下相当)より低いので、加えるべき字は「守」のような気がするのですが。。。 |
更新日:2021/04/13