菅公御伝記 p38 - 46
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十月二十一日上皇大和の国に御幸あり、駕に従ふ者是貞親王を初めとし、公ほか六位童男等に至るまでて二十二人、山に登り、水に臨み、野を行き、原を経、日暮れて旅館に駐蹕せらる。 まづ奈良の手向山にて公は

古(こ)能(の)たひはねさもとりあへし手向山
紅葉の尓(に)しき神のまに/\

の御詠あり。 二十二日吉野の宮滝をさして進向したまひ、二十五日にはその処に達せらる。 公は

水引能(の)白糸はへておる者(は)た八(は)
たひのころもにたちやかさねん

と即吟せられければ、上皇も亦

宮乃(の)滝うへも名におひてきこえけり
をつる白あわの玉とひゝけは

の御製あり。


手向山八幡宮御参詣の図


吉野宮滝御賞覧の図

是の日山河跋渉の興多く、人馬く疲れたり。 公及び素性法師昇朝臣三騎尾を銜て行けり。 この夕何処に宿させ給ふべきかと法師問はれければ、公声に応じて 「不定前途何処宿、白雲紅樹旅人家」 と打誦して連句の人出でざりければ、長谷雄何処に在る、何処にかと高声に呼び給へど応答なく、山中幽邃にして古(こ)だま響く声のみなり。

二十八日大和を出で摂津の国住吉に詣でむとて、竜田山を越えて河内の国に入りたまふ。 竜田は古より紅葉の勝境なればとて各々歌を献ず、公の絶句に曰く

満山紅葉破心機、況遇浮雲足下飛、寒樹不知何処去、雨中衣錦故郷帰、

三十日住吉の浜に出で、十一月一日に朱雀院に還御せられたり。 かくて陪従群臣に酒饌並に絹を賜はる。 蓋し昭代の盛事にして、上皇の御喜びと共に、公の栄誉また如何ばかりなりけむ。 この御幸の記は公の記され給へるものあり、累代朝家の御秘蔵となれりといふ。

二年二月久しく左右大臣なきによりて、大納言時平卿は其の門地に於て、其の現官に於て、国家最上の地位に居られしを以て、左大臣に任ぜらる、時に二十九歳。 権大納言たる公は、一躍して右大臣に任ぜらる、時に御年五十五。 権大納言源光卿は大納言となられたり。 是れ勢の止むべからざるものなりと雖も、従来儒家より出でゝ槐位に登るは、吉備公の外類例なき所にして、藤氏源氏の嫉視は当然免れざる所なるを以て、公は直に辞表を上られたり、其の文に 「人心己縦容、鬼瞰必加睚眦」 の語あり。 允されざるを以て三月重ねて表を上らる、其の文の中に 「猶炉炭以待焼亡、履治水而期陥没」 と云ひ。 尚ほ聴されざるを以て第三表を上られ、中に 「人孰恕彼盈溢、顛覆急於流電、傾頽応於踰機而己」 の語あり。 当時高官に昇るもの、辞表を呈する一の形式的風習なりしも、此の上表を見て誰か其の誠意を疑ふものあらん、誰か其の自ら見るの明なきを議するものあらん。 公は実に当時の事情を熟知し給へり。 唯だ上皇の之を許させ給はざると共に、上皇の寵遇に報ひんがため、国家のため一身を犠牲にすることを覚悟し給へること有難しなんど云ふばかりなし。

三月公の夫人宣来子五十歳に達せられしを以て、衍子女御、為に賀筵を東五条の第に開かる。 上皇臨御ありて夫人に従五位下を授けらる。

上皇今は名実共に政界より御隠退の御決心あり。 太上天皇の尊号を罷めんことを請はれ、此の時公、上皇の為に文を草せらるれば、紀長谷雄天皇の為に答勅を作り、長谷雄上皇の為に文を草すれば、公はの為に答勅を草せられ、荏苒反覆事決せざりしかば、上皇は断然落髪出家し給ひて法名を空理と云ひ、灌頂して金剛覚と号し、三帰十善戒を受け給ひしかば、天皇は終に太上天皇の尊号を停め給ひ、法皇と称し奉らる、是れ吾国に於ける法皇号の始めなり。 法皇は専心仏法に帰依せられ、畿内近国を微行して山水の勝を探り給ひ、侍臣も其の在ます所を知るものなし、斯る間に公の地位は全く孤立の姿となれり。 時平卿は上に立ち万事自ら裁決せんと欲し、源光藤原定国藤原菅根卿等は下に在りて之をがんとせられければ、史家其の事を記して曰く公事毎に異を立つるを欲せず、常に窃に之を嘆ずと、誠に公の心境をふべきなり。

十一月請減大臣職封一千戸表を上られたり。 是れ素より謙譲の意に出でられたるものなりと雖も、財政救治の根本策は、寺院顕官がりに荘園を占領して飽くことを知らず、徒に国司を責め、民間に誅求するも、顕官たるもの自ら抑制して範を垂るゝにあらずんば、政令行はるべきものにあらずとの趣旨に出でられたるものならん。

三年正月には法皇朱雀院に還御し給ひしかば、天皇は之にし給ひ、法皇と内議を凝らせられ、左右大臣朝政を並びるは、政機統一する所なく不便なりとて、公を召して関白たらしめ、万機を裁決せんことを詔し給へり。 公は固辞し給ひて其の議止みたりと雖も、事の漏れんことを惧れ奏して曰く、召ありて事なきときは人必ず之を怪まんと、乃ち事を詩を献ずるに託し、春生柳眼中を以て題となし一詩を賦して之を献ず、天皇、法皇嘆賞し給ひ、各御衣を賜へり。 是れより公は退譲して怨敵を避けんと思ひて、二月右大将を罷めんことを請はれたれども、聴させ給はざりき。 も法皇が藤氏の専横を抑へ給はんとせられ、公之に参画せられたるは無論なるも、俄に累代権勢を張り来りたる藤氏を圧迫せんことは、大なる危険の伴ふものにして、公が唯一の擁護者たる法皇の政界より御隠退とありては、公の御覚悟も一変せざるを得ざりしならん。 その関白たることを辞せられ給ひしは、徒に紛糾を醸し、事に益なきを察知し、隠忍自重先づ其の資望を以て民心をぎ、其の学識を以て時平卿等の政策を牽制して濫に至らしめず、以て幼帝御成長御親政の時期を待たれたるものならん。 其の苦辛惨憺深く国家を憂慮せらるゝ御心事の悲愴、仰ぎても尚ほ余りあり。

八月家集二十八巻を献ぜらる、集は凡そ三部より成れり、菅家集六巻は祖父君清公卿の集、菅相公集十巻は父君是善卿の集、菅家文草十二巻は即ち公の集なり。 献家集状の中に曰く 「臣家為儒林文苑尚矣、臣 之位登三品、官至相丞、豈非父祖余慶之所延及乎、 既頼余慶、何掩旧文、為人孫、不不順之孫焉、 為人子、不不孝之子矣、故今献臣草之次、副 以奉-進之、云々」 天皇叡感斜ならず、左の御製を賜はる。

門風自古是儒林、今日文華皆尽金、唯詠一連気 味、況連三代清吟、琢磨寒玉声々麗、裁制余霞 句々侵、更有菅家勝白-様、従玆抛却匣塵深、

白氏は実に天下の詩人なり。 今天皇のこの御製あり、菅家の面目は云ふも更にて、いかに当時の儒林を騒がしけむ、公即ち同韻を以てその情を述べられたり。

反哺寒烏自故-林、只遺風月金、且成四七箱 中巻、何幸再三陛下吟、犬馬微情叉-手表、氷霜御製 遍身侵、恩覃父祖涯岸、誰道秋来海水深、

九月九日の宴に侍し、製に応じて寒露凝の詩を賦し、後朝同じく秋思の詩を賦し給ひぬ。

丞相度年幾楽思、今宵触物自然悲、声寒絡緯風吹 処、葉落梧桐雨打時、君富春秋臣漸老、恩無涯岸 報猶遅、不知此意何安慰、飲酒聴琴又詠詩、

天皇叡感の余りに御衣を脱ぎてかづけさせたまふ。 これ公の栄誉の極にして、この恩栄が後に断腸の詞編とならむとは、天皇も公もいかでか知りたまはむ。

十月十日公は再び右大将を辞せんことを請はれしも、優詔して聴し給はざりしに、翌日に至り文章博士三善清行は、この月彗星十星の柄に当れるを以て、賢臣の災ありとし、且つ明年辛酉の幹枝は天道革命の運、君臣剋賊の期となし、公に速に勇退せられむことを勧告せり。 又其の翌月革命議を上り、同一の旨意敷衍し、易説を仮りて其の説を神怪にし、御年僅に十六歳にならせらるゝ御幼少の天皇をし奉り、且つ群臣を督励して警衛を戒厳せられよとて、如何にも明年に至りて不軌を企つるものあり、禍天皇の御身に及ばんとするが如き口吻をなし、かも之を以て公に引退を勧むるが如き、其の心の邪正は暫く措き、後世の疑議を免る能はざる所なり。 されば公は之を容れ給はざりしは当然とこそ申すべけれ。

更新日:2021/04/13