菅公御伝記 | p32 - 38 |
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八年七月検税使の可否を再議せんことを奏上せられたり。 事の起りは国費多端にして歳入之に伴はず、正税の外国司の管理する帳外の剰物を勘出して、国有の不足を補はんとするの議行はれ、将に検税使を諸国に簡派せんとするに際し、嘗ては讃岐守として地方政治に通暁せらるゝ公は、因襲の久しきものを斯く一朝に変更するは、容易ならざる悪果を生ぜんことを憂惧せられ、再議を奏請せられたるものなり。 抑も大化大宝の革新以来二百数十年を経過し、徴税の基礎大に紊れて寺院宮官田地を兼併し、荘園なるもの大に起り、民の狡黠なるものは寄進と称し、其の田地を寺院顕官の名義に替へ租庸を免れんとするもの続出し、不輸租田は益〻多くなりぬ。 元来荘園とても国司が管理せしものなりしが、何時しか其の手を離れ、国司は単に輸租田のみ管理することゝなり、而かも徴税の方法たる正税の中にも出挙と称して利稲のみを徴し、原稲を貸すことあり、或は官稲を倉廪[1]に貯蔵するものを民間に貸出して利稲を徴することあり、当初は官民共に其の便に頼りしも、漸次弊害を生するに至り、其の計算非常に錯綜して、国司交替の際と雖も、十分に決算する能はざることあり、其の運用は国司以下の責任にして、中央政府の干渉せざるものなるを以て常に帳外の剰物あり、奸吏は之を乱用して私曲を営み、良吏は之を利用して損年に当り、調庸の闕を補ひ租闕の儲に充つ。 国司之れを以て政治の運用を円滑にし、人民之れに頼りて以て賦役の負担を均しうせり。 因襲の久しき其の利害は一朝に解決する能はざるものにて、其の弊害を矯正せんとせば、先づ根本に遡り、大に荘園の制度を整理し、徴税の方法、国司の職制を釐革せざるべからず。 然るに、徒に枝葉の問題を捉へて遽に之を摘発せんか、擾乱忽ち起り収拾すべからざるに至るべきは、為政家の看取するに難からざる所なり。 太政大臣基経卿薨去以来、源融卿左大臣たりしも、昨年薨去せら[2]たり。 当時藤原良世卿は左大臣、源能有卿大納言たり。 公と時平卿は中納言にして時平卿年二十六、政治の中心は能有卿にあり。 公の此の建議は素より憂国の至誠に出でられたるものにして、人の言はんとして言ふ能はざるもの、公止むに止まれずして所信を断言し、奏議に及ばれたるものなるが、公の正議公論聖聴に達して其の嘉納を得たるより、公の位置は自然朝野に重きをなし、其の責任も随って益〻加はるに至れり。
此の月天皇公に勅し給ひて曰く朕親ら獄に到りて無辜のものを釈放せんとす、而れども徳古に及ばず、汝は朕の近習なり、罪人を列見し、実に依りて拘放し、朕の念ふ所の如くならしめよとあり。 於是公は獄に就き罪状を裁断し、無辜のもの四十六人に旨を含めて放免せられたり。
八月公は更に民部卿に任ぜられ、余官故の如し。 九月後朝応製秋深の賦に 「穿レ雲明月応二能照一、何更人前事々談」 の句あり。 漸く藤原氏に忌み憚られ、一方には諸儒の嫉妬を受けられ、疾くも小讒を構ふものあらはれしを嘆ぜられたるなり。
十一月勅を奉じて五畿七道の国司、四度の公文使期に違ひて上道せざるものは、所司の勘申を待たず見任を解却すべき事を示命せらる。 この他公の執奏によりて、地方官の怠情を矯正せられしこと尠からず。
十二月御息女衍子宮中に入りて女御と為りたまふ。 此の月左大臣藤原良世卿致仕せられ、大納言源能有卿右大臣に任ぜられたり。
九年六月右大臣能有卿薨ぜらる。 されば、此の月天皇は大納言の員を定め、正一人、権二人となし、藤原時平卿を大納言、左近衛大将氏長者となし、源光卿を権大納言となし、按察を兼ねしめ、公を権大納言右近衛大将氏長者となしたまひぬ。 時に御年五十三、是より先、天皇脱屣の御志あり、ことし皇太子御年十三に達したまひしかば、七月三日清涼殿に於て元服を加へたまへり。 時に大夫時平卿加冠の儀を奉じ、公手を加へたまひ、左中将定国卿理髪を奉仕す。 次に天皇南殿に出御し、諸衛中儀を服す、時平卿内弁たり、公官命使を勤らる、儀畢りて御譲位あり、時に先皇は御年三十一歳、新天皇は未だ御幼沖におはしませば、時平卿と公とを内覧の臣に定められ、万機の政を宣行せしめらる。 かくて宇多天皇は仏に帰し、太上天皇の尊号を得、仁和寺に御隠退したまひぬ。
顧ふに宇多天皇は初め権臣の専横を抑えむとて公を登用したまひしに、かく御壮年にて位を御幼齢の新天皇に譲らせ給ひしこと、如何なる叡慮なりけむ、深き御事情の存せし事なるべし。 元来蒲柳の御質、夙に仏門に帰依せられ、世のあぢきなきをはかなみたまひ、政治革新の容易ならざることを看取せられ、聊か倦怠の御志も起りしことならんか。 されど、新天皇と公とに対し、御希望の念を絶たせたまはず、寛平遺誡なる御懇書出でたり。
〔前略〕左大将藤原朝臣者、功臣之後、其年雖レ少、己熟二政 理一、先年於二女事一有レ所レ失、朕早忘却、不レ置二於心一、朕 自二去春一加二激励一、令レ勤二公事一、又己為二第一之臣一、能備二 顧問一、而泛二其輔道一、新君慎レ之、右大将菅原朝臣、是 鴻儒也、又深知二政事一、朕選為二博士一、多受二諫正一、仍不 次登用、以笞二其功一、加以、朕前年立二東宮一之日、只与二 菅原朝臣一人一、論二-定此事一、其時無二共相議者一人一、又 東宮初立之後、未レ経二二年一、朕有二譲位之意一、朕以二此 意一、密々語二菅原朝臣一、而朝臣申云、如レ是大事自有二天 時一、不レ可レ忽、不レ可レ早云々、仍或上二封事一、或吐二直言一、 不レ順二朕言一、又々正論也、至二于今年一、告二菅原朝臣一、以二 朕志必可レ果之状一、菅原朝臣、更無レ所レ申、事々奉行、 至二于七日一可レ行之儀、人口云々、殆至二於欲一レ延二引其 事一、菅原朝臣申云、大事不二再挙一、事留則変生云々、 遂令三朕意如二石不一レ転、総而言之、菅原朝臣、非二朕之 忠臣一、新君之功臣乎、人功不レ可レ忘、新君慎レ之、云々
公の御嗜好より見れば、寧ろ文人詩客として世に立たれたき御希望なりしなるべし。 決して鎌足公以来朝廷の名族たりし藤原氏に代りて、国政を専らにせんなぞ御考慮のあらせられざりしことは、想像するまでもなきことなり。 然るに、情義に厚き公は、宇多天皇の御寵任を受けて辞する能はず、又辞するも許させたまはず、漸く高位高官に上り、藤原氏並に源氏の諸公卿を凌駕し、之が政敵となるに至り、今や将に公然政治舞台に立ち其の技量を施さんとする時に際し、御擁護者たる宇多天皇の御隠退は、如何に公を失望せしめしか、実に千古の恨事と謂はざるべからず。
七月公は正三位に叙せられ、中宮大夫を兼ねられたり。
上皇はその寵臣たる公を挙げて新天皇を補佐せしめ、叡慮の儘なる世となれるをいかに長閑に思召されけむ、此の年九月後朝朱雀院に御し、文人を召して、閑居楽秋水の詩を賦せしめらる、時に公の序あり、この後も屡〻此の院に御宴行はれたり。
新天皇は醍醐の天皇と申し奉り、昌泰と改元せらる。 元年公太上天皇に奏して、諸の納言は共に外記に参与すべき状を以てせらる。 これ譲位の時の詔命に、公と時平卿とのみ政を行ふべき旨あるにより、諸納言等遅疑して奏請宣行の事は、両臣にあらざれば勤むべからずと為し、再三詔旨を反覆訓示すれども趣旨通ぜず、政務壅滞あるを憂へられたればなり。
[1] | [廪]は[廩]とよく似ていますが別の漢字で、「倉廩」の方が正しいようです。 |
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[2] | 脱字のような気がしますが、原文通り表記します。 |
更新日:2021/04/13