菅公御伝記 p26 - 32
|本文 (6/13)|

三年正月太政大臣藤原基経卿薨じたまひぬ。 二月公はまづ昇殿を聴されて侍読となり、蔵人頭に補せられ給ふ。 是れぞ中央の政治舞台に活躍せらるゝの始めにして、御生涯中に新紀元を画するの時なり。 そも蔵人所は弘仁元年嵯峨天皇の始めて置かせられたるものにして、機密の文書及び諸の訴を掌る所なり。 その別当は大臣を以てし、頭は四位の侍臣中より厳撰せらるゝ例にして最も顕職たり。 然るに公はいま地方官を了りたる散位正五位下の鄙官におはします、如何に儒流の名家とはいへ、古来は横流鼎族にあらざれば、登られざる職を授けられしことを深くおそれたまひしにや、直に上表して之を辞せられたりしも、天皇は之を許したまはざりしのみならず、三月に至りて更に式部少輔、四月に至りて又右中弁を兼ねしめ禁色を聴されたまへり。 公はいよ/\畏れおぼして重ねて蔵人頭を辞せられたり。 再度の上表なれば、この度はその請容れられぬ。 かくて四年正月従四位下に進み左京大夫に昇り、勅を奉じ清涼殿に於て群書治要を講じ給ふ。 此の頃藤原保則とていみじき良吏あり、備中権介となるや、財政を整理して三十四ケ年の租税と十一ケ年の調庸を受け、古来嘗てあらざる治跡を挙げ、又出羽の夷叛するや、一兵を労せずして之を平定する等、文武両道に秀でたる明吏なりしが、其の藤家の出なるに拘はらず、基経卿之を用ゐざりしに、天皇は太宰大弐より召出して参議に任じ、民部卿を兼ねしめらる、公を抜擢し保則を重用せられしは、関白に頼らざる天皇御親政の第一着手なり。

天皇は仏法を信じたまひて、生類憐憫の叡慮ふかく、嘗て神泉苑に飼ひ置かれし鹿鳥の類を天台山に放たせたまひ、又殺生禁断の令を下したまひし事あり。 然るに、一年ばかりを経て後、如何におぼしめしけむ、御みづから遊猟をしたまはむとしければ、公はいたく憂ひたまひて、今年鳥獣何の過あれば、にこれを猟り給はむとせらるゝぞと諫め申されければ、天皇実にもとて思し止めさせ給へり。 さらぬだに公の賢明は天皇のに志(し)ろしめす所なるに、かゝる諫言折々きこしめしては、信任したまひしも理なり。

公は劇職に任ずるの傍ら、勅命によりて類聚国史を撰集せられ、四年五月十日史二百巻、目二巻、帝王系図三巻てふ大著述を大成せられたり。 其御根気には、敬服せざるものなかりけり。

五年二月参議に任ぜられ、式部大輔左大弁を兼ね、三月更に勘解由長官を兼ね、四月また春宮亮を兼ねたまへり。 春宮は敦仁親王にして、後の醍醐天皇におはします。 その傅は源朝臣能有卿、その大夫は藤原朝臣時平卿なり。 そも春宮の御母君は、藤原朝臣高藤卿の息女胤子にして、高藤朝臣は藤原氏の疏属なれども、基経卿の系とは遠く離れたるものなり。 而して東宮御冊立に際し、時平朝臣等には何等御諮詢もなく、独り公にのみ諮らせ給へる天皇の御深意も、略ぼ推察するに難からず。 此時時平朝臣は二十三歳なりと雖も、既に中納言兼右近衛大将従三位の官位を帯び、父基経卿の家の子郎党其の周囲に在りて之を擁護し、基経卿関白時代の盛事を回想して、感慨無量なりしは申すまでもなきことなんめり。

六年八月公は遣唐大使に任ぜられたまひぬ、副使は文章博士紀長谷雄なり。 時に唐は昭宗皇帝乾寧元年にして、彼の地内乱相次ぎ、政綱振はず、文物制度の採るべきものなし。 公はにこれを知悉せられしに、去年三月在唐の僧中瓘といふもの、商客王訥等が我が国に来るに付して詳に事情を記し、遣唐使の労ありて効なきを報じ来れるに、公は深く思ひきわめたまふ事あり、上書して諸公卿をして遣唐使の進止を議さしめむことを請はれたり。 朝廷これを容れたまひて、即ちその派遣を停止せらるゝことゝなりしが、七年五月に至り勅して長く遣唐使を廃せらるゝに至れり。 初め推古天皇の十五年に遣隋大使を派せられしより此に至りて殆ど三百年、遣使十五度に及び、此れが為に彼の地の文明を輸入せし効果尠からざりしも、遣使は当時朝貢使の如き観あり、今や吾邦自己の新文明を創建せんとするに当り、彼の国擾乱斯の如しとすれば、対等の交際は兎も角、屈辱的の遣使を廃することは最も好時機なりしならん、爾来公けの交際久しく止みしは己むを得ざる事なれども、公の高見快挙は国民の自尊心を高め、国文学の興隆を助長するに至りたるぞ喜ばしき。

公御年五十になりたまひ、その徳望世に仰がれ、その才能ほ益世にあらはれたまふ。 こゝに門徒の人々貴となく賤となく相集り、吉祥院に於て公の為に賀筵を開くことゝなりぬ。 たまたま一老翁あり、藁履穿ちて進み入り、一の願文に砂金を添へて堂前の案上に置きて立ち去りぬ。 人々あやしみてその文を開き見れば、公の徳を欽仰する詞にてありき。 後にてこれは天皇の叡慮に出でたること知れ渡り希代の事なりとて、いよ/\世に重ぜられたまひぬ。


吉祥院にて五十の賀筵を開かるゝの図

七年正月近江守を兼ねられ給ふ。 余官元の如し。 或日東宮のもとに侍せられしに、東宮公に向はせたまひ、我聞く唐土には一日中に百首の詩を作れるものありと、汝才芸無双なり、一時の中に十首を作りて奉らむやとて十題を出されたまひしに、公即ち各七言絶句を作り、二刻にして上りたまへり。 其の題一首送春の題に 「送春不舟車、唯別残鶯与落花、若使下二 韶光我意、今宵旅宿在詩家」 と東宮はその敏捷なるをいたく喜ばせ給ひ、翌年四月又会して更に二十題を賜ひてその詩を求めらる、公亦酉の二刻より戌の二刻までに悉く作りて令旨をつゝしみ給ひける。

七年十一月従三位に叙し、中納言に任ぜられ、春宮権大夫を兼ねさせたまひぬ。 この年渤海大使裴頲重ねて来る。 公勅を奉じて式部少輔紀長谷雄と鴻臚館に到り、酒を命じ唱和す、日暮れ餞別の詩を賦す、門生十八人麹塵の衣を着てその後に従へり。 後代餞別の坐に能文の学生与ることゝなれるは此に始れり。

更新日:2021/04/13