菅公御伝記 | p19 - 26 |
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二年正月御年四十二の時如何なる朝廷の御議にやありけむ、式部少輔文章博士等の官を罷め、讃岐守に任ぜられ給ひぬ。 これ公の御身にとりては晴天の霹靂、殆ど左遷の状態なれば、御心中さこそと拝察せらる。 是れより先、下野権少掾また加賀権守となられし事あるも、共に遥任にして、嘗てその国に赴きたまひしことはなかりしに、今は栄誉ある諸官を罷められ、任国に下り給ふことゝはなりぬ。 発したまふに臨みて、内宴に侍せられしに、基経卿盃を持ちて公の前に立ち 「明朝風景属二何人一」 と打吟して、公に高く詠ぜしめむとせられしに、公、心身惑乱一声だにも発し得たまはず、流涕嗚咽家に帰られて後も終夜睡りたまはざりしといふ。 この時文章博士藤原佐世傍にありて、親しくこの有様を見聞しければ、詩編を寄せ公を慰め奉り、又餞席を設け詩賦の献酬あり。 公の御作に 「讃州刺史自然悲、悲倍以レ言贈レ我時、贈レ我何言為二重宝一、当レ言汝父昔吾師」 とあり。 佐世はもと父君是善卿の弟子なりしが、兎角公を傷けんとするもの時の文学者間に多かりしかば、この時蓋し寓意を存ぜしならん
讃岐にては南条郡〔今の綾部郡〕滝宮の官府におはしましたるが、常に都を恋ひたまふの情止むことなく、或は鏡に向ひて白髪を嘆かれ、或は世路の険は海路よりも難しなぞ打かこち、憂愁の中に月日を送らせ給ひけり。 御旅館の有様は 「舎低応レ道星穿レ壁、山近猶疑雪照レ帷、四五更来無二一事一、咲看児輩学二吟詩一」 或は 「諸児強勧三分酒、謝日忘レ憂莫二此過一」 とあれば、讃州には御幼児を伴はれたるなるべく、京都におはす御長男よりは、田大夫が応製の禁中瞿麦花三十韻は好評ありとて写送せらるゝあり。 又 「聞道外孫七月生」 の御作あり、憂愁の中にも御家庭の慰安ありしなるべし。
三年十一月京師にてゆゝしき大事こそ生じたれ、所謂阿衡問題是れなり。 事の起りは、宇多天皇御即位、基経卿が元老たるの故を以てことに優遇せられ、万機関白の詔を下せられけるに、当時の慣例にて上表して之を辞退しければ、天皇は更に左大弁兼文章博士橘朝臣広相に命じて勅答を起草せしめ、基経卿に賜はりたり。 その文中に 「社稷之臣非二朕之臣一、宜下以二阿衡之任一為中之任上、云々」 の句あり、藤原佐世之を見て、阿衡には典職なし、これにては、基経卿は摂政関白をのがれたるに同じとて、ことの趣を卿に訴言せり。 卿之を聞きて大いに憤り、今日より無職の身なりとて政庁には出で給はず、有司奏文を持ち来れども受理せず、万機の政此に於て壅塞せり。 天皇事の意外なるに驚かせたまひ、勅意の大臣を優遇するにありて、強て典故に拘泥すべきにあらざる旨を諭したまへども、卿は一向に承けがひ給はず、藤氏の公卿は其の憤りを畏れて一人も参朝せず、事体ます/\穏ならずなりにけり。 此に於て遂に諸博士に命じて、阿衡典職の有無を議せしめたまふ事となり、天皇はいよ/\宸襟安からず思召し、屡〻諭さしめたまへども、卿猶頑然たりしかば、かしこくも遂に勅答の文を改作して更に卿に賜ひ、起草者広相を罰せらるゝことゝなりぬ。
この時公は讃岐守にておは志(し)しかば、この議には与かりたまはざりしも、あまりに事の意外なるに驚かせられ、広相は朝廷に対して大功至親の人、之を罰するは朝廷に対して恐あるのみならず、藤氏の災を招くに至るべき事の理を詳に記述して基経卿に致されたり。 御書中に 「広相採二伊尹之旧儀一、当二大府之典職一、 本義雖下与二詩書一反乖上、新情自与二漢晋一冥会、視二其所-以一レ 非下挟二於異心一以作中斯文上、蓋因二同体一而偸二彼儀一也」 と弁ぜられ又 「大府臨時為二社稷之器一、曷三-若広相積日有二祈 祷之功一、大府居位為二師範之儀一、曷三-若広相親信有二講授 之労一、大府大官唯為二大臣之賞一、曷三-若広相家中有二皇子 之親一、大府摂政為二冢宰之臣一、曷三-若広相承恩有二近習之 故一」 と反省を求めさせられ 「閭里言曰、先皇欲下立二今上一 為中太子上数而、大府不レ務二奉行一、其間之事人皆聞レ之、広 相結二婚姻一、外託二師伝一、万方祈請無レ不レ尽レ誠、斯事雖レ出二 于街談巷語一、我有三万分之可二採用一矣」 と摘発せられたり。 この時左大臣に源融あり、博士に中原月雄、善淵愛成、紀長谷雄、三善清行、藤原佐世等あり。 曲学阿世権臣の意を迎合し満廷の簪笏一人として聖主の憂を分つものなき時に当り、敢然として斯ばかりの諤々たる議論をなされたるは独り公あるのみ、流石横暴なる卿も公の至誠の言議に感動せられたりけむ、広相の処置は其のまゝに已み、遂に関白の職を承はり大政を補佐せらるゝことゝなりぬ。 この問題のいかに一事騒がしかりしかは、公の讃岐より諸友に寄せられたる詩の中に 「天下詩人少二在京一、況皆疲三-倦論二阿衡一」 とあるにても知らるべし。 公が宇多天皇の御信任を得たまふに至りしは、一はこの時基経卿に致されし言議によれりとやいはむ。
三年秋賜暇を得て一時帰京せられしが、州民は再び帰任せられまじなぞ心配せしを聞こしめされ、嘗て官府を距る一里余の海辺に別荘を建て松山館と号し、小松を分種して時には遊行せられし事に想ひ到られ 「当州若不二重来見一、客館何因種二小松一」 との一首を賦して示されければ州民皆安堵せしとぞ。
公は松を愛せられ、竹を愛せられ、梅を愛せられ、最も菊を愛せられたるが如し。 其の詩集に菊に題する御作最も多く、讃州の御任所にても菊を播種せられけん 「少年愛レ菊老逾加、公館堂前数畝斜、去歳占レ黄移二野種一、此春問レ白乞二僧家一」 又応製の詩に 「惜レ秋秋不レ駐、思レ菊菊纔残、物与レ時相去、誰厭徹夜看」 とあり。 或時任地を巡視せられけるに一蓮池あり、池の近東に一長老あり、元慶このかた蓮葉あれども花を生ぜず、然るに仁和以来〔公仁和に御赴任〕花を開くに至れりと申上げければ、公は僚属に命ぜられ池中の茎を取りて部内二十八ケ寺に分種せられたり、聞くもの随喜し、見るもの発心せりとあり。 公の花木を愛させ給ふこと御天性に出づと雖も、亦自ら其の間に厚薄なきにあらず、藤司馬が庁前の桜花を詠ずるに酬ひさせられ 「紅桜笑殺古甘棠、安使君公遺愛芳、不レ用春庭無レ限色、欲レ看秋畝有二余粮一」 或は春惜桜花応製の序文に 「花北有二五 粒松一、雖レ小不レ失二勁節一、花南有二数竿竹一、雖レ細能守二貞心一、 人皆見レ花不レ見二松竹一、臣願我君兼惜二松竹一、云々」 と、以て公が花木に対する御感想のある所窺ひ知らるべし。
御在任中の治跡に関し、明確なる記録に乏しと雖も、名国守藤原保則の後を受け給ひ、施政一に自ら之に倣はんとせられ、謹厳清廉身を以て民を率ひ、所謂無為にして化するとは公が四年間の御治跡なるべし。 御在任中の御作に 「不下以二慈悲一繋上、浮逃定可レ頻」 とあり、実にや或時疫病流行して死亡跡を絶たざるを以て、公自ら医士を伴ひ、戸毎に患者を訪はれしといふ有様なりければ、自然手当も行届き、さしも猖獗を極めし疫病も、漸次屏息するに至りしことあり。 然るに災厄は之に止らず、年みのらず民飢饉に悩みければ、専断を以て非常に備へたる倉廩を開き窮民に施され、然る後この事を奏聞して罪を請はれけるに、優詔して其処置を賞せられたることあり。 又仁和四年一国久しく雨ふらず、池乾き、河涸れ、農民大いに苦みければ、公自ら潔斎して阿野郡城山神社に雨を祈られけるに、不思議や一天俄に曇りて、大雨注ぐが如く降りしことあり。 其の他部下に対しても常に赤心を以て愛撫せられければ、吏民共に悦服せしと伝へらる。
寛平二年二月秩満ちて京師に帰られたまふ、時に御年四十六、州民の公を慕へること父母の如く、其の徳化を忘れざらんが為め、後年に至り毎年七月二十五日には盛に舞踏をなして公を祭り、これを滝宮踊と唱へ、伝へて今の世に及べり。
御帰京後暫しの間は、散官として紅梅殿に風月を友とし、静養に勉められたり。 讃岐御在任中一日も都を偲び給はぬ事なく、辺土の居に苦しみたまひしことは、かしこにての御詩作を拝誦しても察しまつるべし。 殊に脚疾に罹り、又頭瘡に悩まれ、元来蒲柳の質、御身体も衰弱せられければ、閑地に就きての御保養は、後日の英を養ふ素地となりしなるべし。
更新日:2021/04/13