菅公御伝記 | p13 - 19 |
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四年八月三十日父君薨去したまひぬ、御年六十九。 公は母君の御遺言によりて、前後九ヶ年間俸禄の中より費用を節して、金光輝く立派なる観音像を造り上げられ、尚ほ御供養の費用をも調へさせられ、之を父君に告げられ給ひしに、父君大いに満足せられ、善哉汝是言を作す、余も一禅院を建てゝ二部経を講ずべし。 最勝妙典は余の発願にて先年講了せり。 法華大乗は汝の報恩により共に随喜すべし。 孟冬十月は余が家久しく法会の期に用ひたり〔十月十七日西曹祖忌日〕彼の節を取るべき旨仰せありしが、病革まるに及び御遺言には他事なく、呉々も十月の法会を失念すべからずと誡められたり。
公は父君の喪に丁り籠居せられしが、一年を経て本官に復せられたまひしも、今は孤独の御身なると共に、やう/\誹謗の声さへ漏れきこゆるこそ、世は思ふがまゝならぬものなりけれ、此に於いて博士難の御作ありたり。
五家非二老将一、儒学代二帰耕一、皇考位三品、慈父職公卿、 己知稽古力、当レ施子孫栄、我挙二秀才一日、箕裘欲二勤 成一、我為二博士一歳、堂構幸経営、万人皆競賀、慈父独 相驚、相驚何以故、曰悲二汝孤惸一、博士官非レ賤、博士 禄非レ軽、吾先経二此職一、慎レ之畏二人情一、始自レ聞二慈誨一、 履レ氷不二安行一、四年有二朝議一、令三我授二諸生一、南面纔三 日、耳聞二誹謗声一、今年修二挙牒一、取捨甚分明、無レ才先 捨者、讒口訴二虚名一、教授我無レ失、選挙我有レ平、誠哉 慈父令、誡二我於未萌一、
五年十月吉祥院にて先考、先妣の御供養を行ひたまひしが、その願文の中に 「伏惟、弟子慈親伴氏、去貞 観十四年正月十四日、奄然過去、及レ至二周忌一、先考奉レ写二 法華経一部八巻、普賢観経、無量義経、各一巻、般若心 経一巻一、時也此院未レ立、便於二弥勒寺講堂一、略説二大乗之 妙趣一、引二長逝之尊霊一、弟子位望猶微、心申事屈、泣血而 已、〔中略〕‥‥‥起二二十一日一、〔十月〕至二二十四日一、礼二-拝禅-衆一開二-批 法-筵一、所レ仰者新成観音像、所レ説者旧写法華経、始謂就二 冥報一以共利二存亡一、今願仮二善功一、而同導二考妣一、嗟呼先考 所レ誡二弟子一、不レ失者、今日開会之朝、弟子所レ奉二先考一、相 違者、去年薨逝之夕、弟子無レ父何恃、無レ母何怙、不レ怨 レ天、不レ尤レ人、身之数奇、夙為二孤露一南無観世音菩薩、南 無妙法蓮華経、如二所説一、如二所誓一、引二-導弟子之考妣一、速 証二大菩提果一、無辺功徳、無量善根、普施二法界一、皆共利 益」 即ち日蓮上人が始めて題目とせられたる称名は、実に公に依りて唱道せられたり。 吉祥院は祖父清公卿の創建にして菅家の菩提寺なり。
七年加賀権守を兼ねたまふ。 これは父君の例に依りて遥任したまへるものにして、畢竟朝臣の公を優遇したまへるなり、時人之を栄とせり。
五月渤海国大使裴頲以下来朝す、公、権に治部大輔の事を執りて接待したまへり。 そも当時の制、治部省は玄蕃寮を管し、玄蕃寮は更に鴻臚館を監督して、外客の饗讌送迎の事を掌れり。 されば、外人入朝の時には難波より京師の鴻臚館に導き、此処にて慰問する例なり。 この大使の一行も例に依りてこゝに導きしかば、公は接待官として屡〻赴かせられ、詩賦の贈答なぞ行はれしに、大使、公の才能に驚きその風、白楽天に似たりとて賞賛措かざりしといふ。 接待官中には玄蕃頭島田忠臣、典客紀長谷雄等の詩人あり、大使と贈答同和の作首尾五十九首ありしを以て、一軸に編せられ公自ら序文を製せられたり。 酔中衣を脱き、裴大使に贈られし時の御作に 「呉花越鳥織初成、本自 同衣豈浅情、座客皆為二君後進一、任将領袖属二裴生一、」 暫時の御交際なりしも、交情頗る濃なるものあり。 朝廷に於ても御款待を極められ、三日豊楽殿に於て宴を賜はりし時は、雅楽寮鼓鐘を陳し、内教坊女楽を奏し、妓女百三十八人と注せらる。 五日は武徳殿にて四府の騎射、六日には左右寮の競馬及び四府の馬術等を観覧せしめられたり。
七年六月秀才課試に対する因襲の弊を矯めんが為に、策問徴レ事可レ立二限例一事、律文所レ禁可二試問一否事、対策文理可レ詳二令条一事に関し建議せられたり。 公の試策を得たる秀才には高岳五常、三善清行、紀長谷雄、小野美材等の駿才ありたり。
六年夏の頃何者か匿名の詩を作り、藤納言冬緒を誹りたるものあり。 その詩頗る非凡なりしを以て、或るものは公の手になりたるものならんと疑ひを懐くに至りければ、公憂慮せられ、有所思といふ長編を賦して弁妄せられける。 然るに翌七年五月鴻臚贈答詩世に出て、裴大使が公の作を白楽天に似たりと推賞せしを伝へ聞き、楽天は当時世人の神仙の如く尊敬するところなれば、多くの崇拝者を得ると同時に、反感者を生じ、公が応酬の詩の拙劣なるを誹るものあり。 公、詩情怨を賦して曰く 「去歳世驚作レ詩巧、今年人 誹作レ詩拙、鴻臚館裏失二驪珠一、卿相門前歌二白雪一、非二顕- 名賤匿-名貴一、非二先-作優後-作劣一、云々」 当時学閥党同の弊甚しく、互に相排擠し何かにつけ公を傷け、その地位を奪はんとするもの生ずるに至れり。 殊に七才の御子阿満を亡ひ、次で小弟も死去せられければ、悶悶[1]の情出家せんとまで思召されたることあり、実に痛ましき限りなり。
斯る間にも公は風流の道を捨て[2]まはず、常に菊花を愛せられしが、天台明上人より分寄せられし種苗の花を開きし時 「寒叢養得小儒家、過レ雨宜レ看亜二白沙一、 本是天台山上種、今為二吏部侍郎花一、霜髪秋暮驚二初老一、 星点暁風報二早衙一、長断俗人籬下酔、応レ同三閑ニ在二旧煙 霞一」 の御作あり。 公は博士たりし時より、毎年季秋大学の諸生を集め、菊花の下に小宴を開かれ詩賦の御催ありたり。 又時々囲碁をも試みられたり。 御文草に曰く 「去冬〔八年〕過二平右軍池亭一、対二乎囲碁一賭以二隻圭詩賦一、 将軍戦勝博士先降、今写二一通一酬二一絶一、奉レ謝二遅晩之 責一、先冬一負此冬酬、妬使下二侯圭一降中奕-秋上、閑日若逢相 座-隠、池亭欲レ決古ノ詩-流」
光孝天皇の仁和元年太政大臣藤原基経卿満五十算に達せられければ、朝廷に於ても種々祝賀の宴を張られけるに、右親衛平将軍正範も亦賀宴を設け、宴座に要する屏風の構図を絶妙ならしめんと思ひ立ち、平常懇親の間柄なる公に申されけるは、画は巨勢金岡に、書は藤将軍敏行に、詩は卿に託せんとす、然らば、天下の三絶にして予の願ひも足りぬと、公辞み難く詩五首を賦し併せて序文を作られけり。 序文は呂氏春秋の成文を引用せられ 「其為二宮室台榭一也、足二以 避レ燥脩一レ湿矣、其為二飲食酡醴一也、足二以適レ味充一レ虚矣、 其為二輿馬衣裘一也、足二以逸レ身煖一レ骸矣、其為二声色音楽一 也、足二以安レ性自娯一矣、其為二花囿園池一也、足二以観望労一レ 形矣、五者聖人之所二以節一レ性、不二必好レ倹而已一、云々」 陽成天皇を御狂疾なりとて、恐れ多くも廃立を謀り、豪勢朝野を圧する太政大臣歓迎の宴座に、此の警句を撰び給ひし御深意は推想するに難からず。
[1] | 原文は「悶悶」の間に改行があるため、重ね字「々」が使われなかったのだろうと思います。 |
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[2] | 脱字のような気がしますが、原文通り表記します。 |
更新日:2021/04/13