菅公御伝記 p8 - 13
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二十三歳の時、釈奠に臨みて父君の孝経の講義をきかせられ、即ち資父事君をいふを賦し、其序を作られて曰く 「況亦資慈父、以事聖君、君父之敬可同、孝子之門、必有忠臣、臣子之道何異」 と忠孝一本の説を主張したまひき。 公はたゞに文として詩として、かゝる説を述べて足れりとせず、一生を通じて躬からこの事を践行せられたまひしとぞ、たふとくも亦有りがたき。

九年正月文章得業生と為り、二月正六位下を授けられ下野権掾に任ぜられ給ふ。 今はやうやく修学の時を過ぎて、愈〻その才能を発揮したまはんとする時となりぬ。 されば内宴応製の詩賦等は更なり、上表、願文等の代作に殆ど寧日なきありさまとなりたまへり。

十二年春の頃、公の師事せし時の鴻儒都良香が家に人多く集りて弓を射てありけるに、公図らずも尋ねおはしたり、人々打見て公は常に扉を閉ぢて学問のみこそつみたまひたれ、いかでか弓の本末をだに知りたまはむ、射さして笑はむとて、強て射場に誘ひけるに、其の姿勢進退みな礼にかなひ、弦音高く切て放ちたる矢は、一つも愆たず其正鵠を射たりしかば、良香感に堪へかね自ら下りて御手をとり、様々の引出物をぞ進らせけるとなん。


都良香邸にて弓を射給ふの図

公は素より小成に安じたまふべきにあらず、式部省規定の秀才科の試験に応ぜらるゝことゝなりぬ。 当時試験の法に秀才、明経、進士、明法の諸科ある中、秀才は博学高才の者を採る定めにして、諸科中の第一に在るものなり。 試験官は文章博士都良香にして、問題は時務策二条、其の一は明氏族、其の二は弁地震といふにてありき。 良香其の答案を見て中上第に定めしかば、やがて本位正六位下に一階を進められて、正六位上の位を授けらる、時に二十六歳なり、御元服の時に母君の詠みたまひし御歌の如く果して桂を賜はりけり。

十三年正月玄蕃助に任ぜられたまひ、少内記を兼ねらる、玄蕃は外客及び僧侶の事を掌る寮にして、少内記は中務省に在りて詔勅の草案を掌る官なり。 公は父祖の徳とその自らの才能とによりて、この枢要の職につき給ひしなり。 この頃の御住居の有様は、後年〔寛平五年〕の御作にかゝる書斎記に詳なり。 文に曰く 「東京宣風坊有一家、家の坤維有一廊、廊之南極有一扃、 扃之開方纔一丈余、投歩者進退傍行、容身者起居側 席、先是秀才進士、出此扃者、首尾略計近百人、 故学者目此扃竜門、又号山陰亭、以小山之西 也、戸前近側有一株梅、東去数歩有数竿竹、毎花 時風便、可以優-暢情性、可以長-養精神、余為 秀才之始、家君下教曰、此扃名処也、鑽仰之間為汝 宿廬、余即便移簾席以整之、運書籍以安之、云々」 と、この狭隘なる御書斎こそ紅梅殿と称し、後年迄御住居あらせられたり。 即ち今の京都市西洞院仏光寺南へ入る東側、菅大臣天満宮の位置に在りしものにて、学生を養ふ寄宿寮の如きもの、兼ねて図書室とも見るべき所なりしならん。


御書斎の図

或る時、都良香月夜馬に騎りて羅生門を通りけるに、春風暖かに麹塵糸をみだせる青柳の家々の垣根ごとにみえければ 「気霽風梳新柳髪」 と詠じたれども、次の句をば案じ煩ひたりけるに、羅生門の上より大に志(し)はかれたる声聞えたりと覚えしに、忽ち 「氷消浪洗旧苔鬚」 なる句を得たり。 良香さすがに心嬉しく、公に会見せるとき、其の講評を要められしに、公一目して上句は固より御自作ならんも、下句は鬼仙の語ならんと激賞せられしかば、時の人咸な公の神に通ずることを唱へ合へり。

十四年正月公の母君大伴氏俄に病を獲て亡せたまひぬ。 母君は少納言大伴善継卿の息女にして、三十歳を超えて御子なき為め、丹誠をこめて伊勢外宮に祷り挙げられたるは即ち公にして、今歳は二十八歳にましませば、母君の御齢は六十前後なるべし。 御病床に公を召し申さるゝに、卿幼稚の頃病身にて哀愍に堪へぬまゝ、観世音に御願をかけて平癒を祈り、御願成就の上は御像を造りて奉納を誓ひ奉れり、幸に其の御力にて卿の病は癒え、いとすこやかになりぬ、卿母の誓願を果せよと遺言あらせられたり。 公は母君の喪にり解官し給ひぬ。 然れども、時勢は長く喪に籠り居たまふことを許さず、年の五月に詔して奪情従公の制によりて本官に復せられ、渤海王に答ふる勅書を作らせたまひけり。

十五年正月従五位下に叙せられ、兵部少輔に進められしが、二月民部少輔に転じたまへり。 この歳政事に関し著作の御志ありしも、劇忙其の意を果させられず、予め序文を撰せられたるものあり、其の抱負を見るに足る。 文に曰く 「自古之聖帝明王、莫直 諫聞得失、因秀才以決是非、聞而行之決而用之、 政術治道皆在其中、〔中略〕‥‥‥今之所撰唯急時務、時務 之中更択其実、或問存而対亡、或対留而問缺、或文 詞雖綺艶而少治体、或弁論雖精微、而殊貧章句、 如斯之類措而不挙、総六十道、分為十巻問対兼具、 文理相順、名曰治要策苑、云々」

公の北の方は島田氏宣来子と申され、島田忠臣朝臣の息女なり。 公御幼少の折朝臣に師事せられ、因縁深き間柄とて御縁談も纏まりしならん。 十八年に御長男誕生ありしかば、御婚儀は蓋し数年前ならん、北の方の御年齢は公より若きこと五歳なり。

陽成天皇元慶元年正月式部少輔に任ぜられ、同年十月文章博士を兼ね、翌年従五位上に進みたまへり。 文章博士は当時紀伝の業をも兼ね掌る大学の教官にして、実に古人朝臣以来公の家の家職となれるものなり。 此の歳堂宇を経営せられしに、来り賀するもの万人にも及びたりといふ。


博士となられたる年堂宇を経営せられ万人来たり賀するの図

更新日:2021/04/13