菅公御伝記 | p4 - 8 |
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我が紀元一千五百五年仁明天皇の御宇承和十二年乙丑六月二十五日、今茲昭和三年戊辰を距ること一千八十三年京師菅原院[1]に於て、文武の才能博愛忠孝の遺伝を一身に集め、呱々の声を挙げ給ひしは我が道真公にして、父は是善卿、母は大伴氏なり。 公の生誕地たる菅原院は今も尚ほ厳然として京都市烏丸通り下立売下町に其の跡を留む。
道真公は世に菅公と申上げ、幼くおは志(し)し時より深く学を好み、ことに詩文に長じたまへり。 文徳天皇斉衡二年十一歳の時、父君に伴はれて大儒島田忠臣の許にまゐられけるに、其の才を試みむとにや、月夜見梅花といふ題にて詩作れよと促がされしかば、公は
月耀如二晴雪一、梅花似二照星一、可レ憐金鏡転、庭上玉房馨、
と賦せられぬ、列坐の人々いたく感ぜられけり。
公は幼名を阿呼と申されしが、清和天皇貞観元年十五歳にて御元服、御名を道真字を三と称せられしより世に菅三とぞ申しける。 母君前途を祝福せられて
久方の月のかつらも折るはかり
いへ能(の)風をもふかせてしかな
桂を折るとは対策及第の事なんめり。 この年刑部福主の為に四十賀の願文を代作せられたり。 父君は公をして進士の挙に応ぜしめんがために、毎日詩賦を試させられ、赤虹編、詠青、躬桑、折楊柳編の如き其の時の御作なり。 されば、四年五月十七日十八歳にして式部省の試に応じて当時瑞物の賛六首を賦し、及第して文章生に補せられ給へり。 瑞物の賛六首は「濃州上二言紫雲一、礼部王献二白鳩一、美州献二白燕一、備州献二白雀一、数州献二嘉禾一、郡国多献二木連理図一」是れなり。 同年九月九日内宴に侍し、製に応じて鴻雁来賓の詩を賦せらる。 爾来文名漸く世に顕はれ給ひぬ。
六年是れより先、父の卿は諸生を会して経史を講ぜられ、公をもその中に加へて教え導かれしが、こゝに至りて後漢書を卒業せられければ、各々にその書中の人物を詠ぜしめらる、時に公は黄憲を得てその蘊蓄を述べ、非凡の才を認められたまへり。
八年御年二十二の時、父の卿に代りて、天台座主安慧の著はせる顕揚大戒論に序し給ふ。 其の文に曰く
夫菩薩戒者、流転不滅之教也、盧遮那仏、伝ヘ二之ヲ於前ニ一、 文殊師利、弘ム二之於後ニ一、故与下彼談二小乗ヲ一者上、一ニシテ[2]レ道而二ナリ レ門、与下此説ケル二声聞ヲ一者上、異ニシテレ器而同スレ響ヲ、我本朝馳二神ヲ真 際ニ一、求二法ヲ道邦ニ一、先請レ業者、偏ニ執シ二律儀ヲ一、後研クレ精者、更ニ 伝タリ二円戒ヲ一、猶如二前途ノ覆ヘシテレ車而未レ帰ラ、晩進指シテレ南ヲ而必達イタルガ一、 自後師資不レ絶、積習為レ常ト、論者東西シテ、互ニ相矛盾セリ、殊ニ 恨ラクハ保執ノ者自ラ謂ヲモヘリ、除テ二小律儀ヲ一、更ニ無シト二大乗戒一、遂ニ毀テ二梵網 宗ヲ一、以為二沙弥宗一、貶ヲトシテ二三聚教ヲ一、以為セリ二非僧教ト一、悲哉知テ二其 一ヲ一而不レ知二其二ヲ一、未レ可二与ニ談一レ道者也、先師伝教大和 尚最澄ハ者、播ホトコシテ二声ナヲ異域ニ一、得タリ二道ヲ遐方ニ一、痛二此専愚ヲ一、悲テ二此紛 惑ヲ一、便約シテ二三寺之香火ヲ一、以討セリ二二途之是非ヲ一、碩徳肩随、 群賢目撃ス、仍テ撰テ二顕戒論三巻ヲ一、以献ル二嵯峨皇帝ニ一、天聴己ニ 畢ヘテ、宮車晏駕シ玉ヘヌ、至二天長皇帝ニ一、特ニ下シテ二勅詔ヲ一、創メテ築二戒壇ヲ一、 将下伝テ二之ヲ不隳[3]ニ一、貽ムト中之ヲ後際ニ上、慈覚大師円仁者、法門之 領袖也、銜テレ詔ヲ入レ唐、遊二学セルヿ[4]異方ニ一、十有余載、不レ恥二下問ニ一、 深ク味ヒキ二道膄ヲ一、皇帝殊ニ賜二褒寵ヲ一、待ヿレ之ヲ如レ神、乃チ下シテレ詔ヲ修二建ス 鎮国ノ灌頂ヲ一、尸羅之教、所以コノユヘニ恢弘シ、悉地之宗、由レ玆ニ輈 漲セリ、田邑ノ先帝、親受玉ヒ二大戒ヲ一、百僚翹ケレ誠ヲ、万姓改レ観、曁テ二 于今上ノ即位ニ一、聴覧ノ余閑、復受玉へり二此戒ヲ一、大皇太后、公卿 宰相、同ク大ニ歓喜シテ、叉手服膺ス、既而求レハ二之ヲ白業ニ一、天子有二 灌頂之儀一、訪ヘハ二之ヲ玄門ニ一、比丘設二廻心之礼ヲ一、道之為ヿレ貴、 亦復如レ是、然而局学之人、寔繁有レ徒、追攀之慕、漸 存二於心ニ一、毀剥之詞、未レ絶二於口ニ一、我大師円仁、慨然トシテ長 歎、不レ捨二昼夜ヲ一、博ク窺二三権之膏肓クワウヲ一、新ニ増二一実之脂粉ヲ一、 乃チ撰二顕揚大戒論ヲ一、藁草纔立、条緒未レ成、乍チニ遭テ二寝疾ニ一、 薬石無レ験、即遺嘱シテ曰、貧道適有テ二宿意一、撰トスルニ二此一論ヲ一、性 命難レ期、毘嵐忽ニ至レリ、若有テ二同宗一、遂ケハ二此願言一、縦雖二瞑 目スト一、死骨不レ朽、安慧定水長ニ濁リ、禅林早ク寒シ、感シテ二先師之 一言ヲ一、備フ二斯文ヲ於三覆ニ一、手駆リ二緇蠹ヲ一、口吹キ二紙魚ヲ一、一点一 画、必加二刪正ヲ一、一二年来、繕収シテ甫テ就ル、合テ十三編、勒シテ為二 八巻ト一、庶幾ハ伝ヘ二之三際ニ一、頒タム二之ヲ十方ニ一、使二臆談ノ者ヲシテ懸レ頭ニ、膚 受者ヲシテ割一レ肉ヲ、聊製二拙文ヲ一、付二之ヲ編首ニ一、或アラバ二後進之好事者一、 知ム三先師之有ヿヲ二此志一、丙戌歳十一月二十五日釈安慧序。
安慧書を菅相公に寄せて云く 「詞林干レ雲、筆海浮レ天、固以将レ動二梵王之情一、寧復不レ振二釈王之宮一、先師遺願、於レ斯己満、大士宝戒、于レ今増レ光、豈止山家明珠、二代奇珍而已、亦乃諸宗指南、万劫亀鏡者也」 と大に謝意を表し、愈々世の仰敬をひき給ふに至れり。
[1] | ここでは菅原院(現・菅原院天満宮神社)とされていますが、道真誕生の地については諸説あります。⇒道真生誕地 |
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[2] | 下線部は原文の[](「シテ」と読む片仮名)はフォントによる表示ができないため「シテ」に書き換えています。 また「」の誤記と思われる「メ」も「シテ」に書き換えました。 |
[3] | [隳]の異読音が[堕]らしいのですが、置き換えていいものか判断できません。 |
[4] | [ヿ]は「事」の草書の上部で、「コト」と読む片仮名です。 |
更新日:2023/05/30