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菅公御伝記
菅原恒覧編
うつゝ世におは志(し)し時は、仁徳忠誠の賢者、文学の師表として一世の瞻仰を享け、神隠れましては、天満大自在天神と崇められて芳名を青史に垂れ、千古に廟食し給へる菅原道真公は、天穂日命の御末葉にましませり。 抑も、命は天照大神の御旨を承はりて、出雲の大国主神に順逆の理を説き、天孫の御降臨を容易ならしめ給へる大功あり。 其の遠孫野見宿禰は力飽くまで強く、垂仁天皇の七年に朝廷に召されて、当麻蹶速と相撲して之を敗り、蹶速が所領を賜はりて大和国に居らしめられき。
宿禰武力の勝れしのみならず、仁愛の心深く、皇后日葉酢媛命の崩ぜらるゝや、埴輪を作り殉死に代へんことを奏して容れられ、其の功によりて土師臣の姓氏を賜はり、爾来この氏人は大喪の事を掌り、菅原伏見の里に住せり。
光仁天皇の御宇、天応元年野見宿禰の遠孫古人卿、住居の地名をとりて菅原氏と名のらむことを請ふて勅許せらる。 桓武天皇延暦十六年太政官の論奏によりて凶礼を掌ることを止められたり。
古人卿は阿波守宇庭朝臣の子にして、大学頭文章博士より治部卿に累進し、桓武天皇の侍読たり。 当時唯一の鴻儒にして、専ら文教の振粛に任じ、平安朝漢文学の基礎は卿によりて築き上げられたり。 人となり耿介高潔、家に余財なく、朝廷其の輔弼の功多きを思召され、特に其子息四人に衣糧を賜はりて学業を励ましめ給へりといふ。
古人卿の子清公卿は延暦二十三年遣唐判官として渡唐せられぬ。 此の一行には後世伝教大師、弘法大師として大名を遺せる最澄、空海の両留学僧あり。 帰朝後唐朝の儀式を採用せし事に与りて卿の献替尠からず。 大学頭、文章博士、式部大輔、弾正大弼に累進し、嵯峨、淳和、仁明の三朝に歴仕して其侍読となり、父古人卿の志を紹ぎ育英に努め、大学寮の四方に学舎を建て自ら子弟を教導し、大江氏の東曹に対し西曹と云へり、是れ私学の初めなり。 卿勅を奉じて小野篁等と令義解、小野岑守等と凌雲集、藤原冬嗣等と文華秀麗、良岑安世等と経国集を撰せられたり。 天性慈愛に富み、殺伐の事を好まず。 大同の初め尾張介に任ぜられし時、その治刑罰を用ゐず、史之れを称して漢の劉寛に傚ふものとせり。 晩年深く仏法を信じ、常に造像写経に努められたり。
清公卿の子是善卿は幼より聡頴、十一歳の時嵯峨天皇の御前に於て書を読み、詩を賦せられたりといふ。 文章博士大学頭より刑部卿に任じ、文徳、清和両天皇の侍読を勤められ、時の大儒と共に文徳実録、貞観格式等を撰し、東宮切韻十巻、銀牓輸律十巻、会文類集七十巻等は其の著作なり。 其の他当時の詔勅、願文、奏議等、卿の筆に成りしもの多し、卿は祖業を継紹して育英に務められ、又専念仏道を崇め、仁愛の心深く、晩年一禅院を興し隠栖せられんとせしも、遂に果さずして薨ぜられたり。
更新日:2021/04/13