菅公御伝記 目次 p1 - 8
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菅原道真公御影像

菅公御伝記要目

  西暦数え年掲載
一、遠祖天穂日命大国主神に順逆の理を説き給ふ 本文
一、祖先野見宿禰当麻蹶速と相撲のこと
一、野見宿禰埴輪を作りて殉死に代ふ
一、曽祖父古人卿は桓武天皇の侍読たり
一、祖父清公卿は西曹を開き子弟を教育せられたり
一、父是善卿は時の大儒なり
一、承和十二年六月二十五日公御誕生 845年 1歳 [2]
一、斉衡二年公十一歳の時月夜見梅花の題にて始めて詩を作られたり 855年11歳
一、貞観元年御元服母君歌を詠じて祝福せられたり 859年15歳
一、四年公十八歳の時文章生に補せられたり 862年18歳
一、八年公二十二歳の時父の卿に代はりて顕揚大戒論の序文を作られたり 866年22歳
一、九年公二十三歳の時忠孝一本の説を道破せられたり 867年23歳 [3]
一、文章得業生となり下野権掾に任ぜられたり
一、十二年春都良香の家にて弓を射られたり 870年26歳
一、秀才科の試験に及第せられたり
一、十三年玄蕃助に任じ少内記を兼ねられたり 871年27歳
一、御書斎の有様 一〇
一、都良香詩作の講評を公に求む 一〇
一、母君の逝去 一一872年28歳
一、十五年兵部少輔より民部少輔に転ぜらる 一二873年29歳
一、治要策苑の序を作らる 一二
一、島田氏宣来子と御婚儀を挙げらる 一二
一、元慶元年公三十三歳の時式部少輔に任じ文章博士を兼ねらる 一三877年33歳
一、四年父君薨去せらる 一三880年36歳 [4]
一、博士難の御作あり 一四
一、五年吉祥院にて先考先妣の御供養を行はる 一四881年37歳
一、七年加賀権守を兼ねらる 一五883年39歳
一、治部大輔の事を執りて渤海大使に接待せらる 一五
一、秀才課試に対する因襲の弊を矯めんことを建議せらる 一六
一、有所思及び詩情怨の詩を賦せらる 一七
一、菊花を愛せらる 一七
一、藤原基経卿五十算祝宴の屏風に五首を題せらる 一八885年41歳
一、仁和二年公四十二歳の時式部少輔文章博士を罷め讃岐守に任ぜらる 一九886年42歳 [5]
一、内宴に侍して流涕嗚咽せらる 一九
一、滝宮官舎の有様 二〇
一、阿衡問題 二一887年43歳
一、三年賜暇帰京 二三
一、花木に対する御観想 二四
一、御在任中の治跡 二五
一、滝宮踊 二六
一、寛平三年公四十七歳の時昇殿を聴され侍読となり蔵人頭に補せられ更に式部少輔右中弁を兼ね禁色を聴さる 二六891年47歳 [6]
一、四年左京大夫に進まる 二七892年48歳
一、天皇の御遊猟を諫め給ふ 二八
一、類聚国史を撰集せらる 二八
一、五年参議に任じ式部大輔左大弁更に勘解由長官春宮亮を兼ねらる 二八893年49歳
一、敦仁親王春宮に立たせ給ふ 二八
一、六年遣唐大使に任ぜらる 二九894年50歳
一、吉祥院にて五十算の賀筵を開かる 三〇
一、春宮の命によりて一時に十首の詩を賦せらる 三一895年51歳
一、七年中納言に任じ春宮権大夫を兼ねらる 三一
一、検税使の可否を再議せんことを奏上せらる 三二896年52歳 [7]
一、勅を奉じて囚徒四十六人を放たる 三四
一、八年民部卿に任ぜらる 三四
一、御息女衍子女御となる 三五
一、九年権大納言右近衛大将氏長者とならる 三五897年53歳
一、春宮御元服 三五
一、宇多天皇御譲位醍醐天皇御即位 三五
一、寛平遺誡 三六
一、昌泰元年上皇大和国に行幸従駕せらる 三八898年54歳 [8]
一、二年公五十五歳の時右大臣に任ぜらる 四〇899年55歳
一、三たび辞表を上らる 四一
一、夫人宣来子五十算の賀筵を開かる 四一
一、上皇御落飾法名を空理と称せらる 四二
一、大臣職封一千戸を減ぜんことを上表せらる 四二
一、三年関白の御内勅を賜はる 四三900年56歳
一、家集二十八巻を献ぜらる 四四
一、九月九日宴に侍して御衣を賜はる 四五
一、三善清行の諫言 四五
一、四年公五十七歳の時従二位に叙せらる 四六901年57歳 [9]
一、同年正月二十五日俄然太宰権帥に貶せらる 四六
一、時平卿等の讒言 四七
一、菅根等諸陣を固め法皇の御参殿を拒む 四七
一、四人の御子息諸国に左遷せらる 四八
一、太政官符を太宰府に下す 四九
一、京より太宰府までの御道中 五〇
一、時平卿の勢力俄に上下に及ぶ 五一
一、門下生等災難を免る 五二
一、浄妙院に於ける御謹慎 五二 [10]
一、太宰府に於ける詩歌 五三
一、延喜元年九月十日断腸の詩 五四
一、京都御留守居の有様 五五
一、菅家後集 五六
一、三年二月二十五日謫所に薨ぜらる時に御年五十九歳 五七903年59歳
一、二十五日と梅花 五七
一、御葬送 五七
一、味酒安行始めて社を建て公を祭る 五八905年
一、公の御性格 五八 [11]
一、理伏の弁 六〇
一、平安朝の文学及び公の寄与 六一
一、公の多才多芸 六二
一、公の思想観と新文明の創建 六二
一、教育家としての公の地位 六四
一、公の書道 六四
一、公の政治観と公の誠忠 六六
一、延喜格 六九 [12]
一、讒者の死去 七一
一、迷信者及び仏者の宣伝 七一
一、復官の詔勅 七一923年
一、御子息の復官 七二906年
一、六子爵一男爵の祖先 七二
一、子孫の文藻 七三
一、菅家に三十三人の文章博士を出す 七四
一、文子と太郎丸御神憑を受けたりと称す 七四942年 [13]
一、北野右近馬場に公を祭る 七五947年
一、歴朝の天皇北野神社を崇敬せらる 七六
一、豊臣秀頼卿北野神社を改造す 七六1607年
一、御祭礼 七六
一、北野万灯 七六
一、諸国の社殿 七七
一、公の御影像 七八
一、公に関する著書 七九

更新日:2021/04/13