吉祥院六斎 |
重要無形民俗文化財
吉祥院六斎念仏
六斎とは、仏典に説く六斎日のことで、普通月の8・14・15・23・29・晦日の六日間をいい、昔は悪鬼が現れて人命をおびやかす不吉な日として人々は精進潔斎して身を慎んだといわれています。
六斎念仏は、平安時代に空也上人が、一般民衆に信仰をひろめるため鉦や太鼓をたたいて踊躍念仏をはじめたのが起こりといわれ、のちのこの六斎日に行われるようになったので、六斎念仏と呼ばれるようになったと伝えられます。 しかし、室町時代中期頃から次第に風流化し、特に能、狂言、歌舞伎等を取り入れた娯楽性豊かな芸能になり、本来の六斎日とは関わりなく盆の行事として伝承されて来たのが現在の六斎念仏です。
現在、京都市内には十数組の六斎念仏が伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定されていますが、そのほとんどが、様々な芸能を持つ芸能的六斎で、空也堂系六斎ともいわれています。
吉祥院六斎念仏は、その代表的なもので、毎年八月二十五日夜に地元の吉祥院天満宮で行われる六斎念仏の奉納は、長い歴史と伝統を持ち、京都の夏を彩る著名行事の一つとして、広く市民や観光客に親しまれています。
吉祥院六斎の起源には様々な説がありますが、平安時代後期の吉祥院天満宮の勅祭に獅子舞を奉納したことや、山崎の合戦に敗れ吉祥院へ逃げて来た後、豊臣方に討たれた明智勢の残党を弔(とむら)ったのが起こりであると伝えられています。 それぞれ時代的な違いはありますが、七月十五日の盂蘭盆(うらぼん)は死者を弔い、現世に生きる人々にも楽しみを与える日とされていることから、天満宮の獅子舞奉納と盂蘭盆の戦死者の弔いとが結合して、吉祥院六斎念仏が行われるに至ったと考えられます。
吉祥院六斎の発展は、本来の六斎である念仏に、江戸中期以降、田楽系統の演芸、能、舞踊、歌舞伎、長唄、かっぽれや曲芸的なものを取り入れて、大衆の娯楽的芸能化したことを契機としていますが、『四ツ太鼓』や『祇園ばやし』等の一連の太鼓ものは、現在でも六斎の基調をなしているものです。
明治時代の吉祥院六斎は、東条・西条・北条・南条(現菅原町)・石原・新田・中河原・嶋など多くの字に一組ずつの六斎組を持ち、八月二十五日の天満宮夏季大祭の六斎奉納には、その夕方から翌夜明まで、それぞれの組が次々と競演し、境内は立錐の余地もないほどでありました。 また、この頃は清水寺、東寺、壬生寺への奉納や、町内をはじめ市内の盆行事への勧進も行われるなど盛況を呈していたようですが、その後の時代の流れの中で各組が次々と消滅していきました。
現在の吉祥院六斎は、幾度かの消滅の危機に瀕しながらも地元住民のたゆまざる努力によって唯一残されてきた菅原町の六斎組によって、その伝統が今に伝えられています。 近年は小学生を中心に中・高校を交えた子供六斎会が結成され、後継者の育成が計られています。
吉祥院六斎は、永く京都の六斎念仏の中心にあり、昭和二十八年には京都を代表する六斎念仏として国から無形文化財に指定され、昭和五十八年には他の六斎念仏をあわせて重要無形民俗文化財に指定された[1]貴重な文化財です。
出所:『吉祥院六斎念仏』パンフレット
[1] | 昭和54年(1979)に吉祥院六斎の山中弥一郎氏を初代会長として京都六斎念仏保存団体連合会❐が結成され、これが昭和58年(1983)の重要無形民俗文化財指定につながりました。 令和6年4月現在、吉祥院六斎保存会を含めて14団体(念仏系4、芸能系10)が連合会に加入しています。 |
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更新日:2024/10/04