吉祥院天滿宮詳細錄 第一章 p1 - 8
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第一章 吉祥院天滿宮綠起同略綠起

山城國紀[1]伊郡吉祥院天滿宮綠起(寫)

夫天滿大自在天神は風月の本主文の大祖たり 天上にては日月として大千世界を照し下界に天降ては監梅の良弼となり大八洲の國を治め給ふ 其後天滿大自在天神と申奉りて諸州諸に跡をたれ衆生を濟度し給ふ 水の地中に有かことくあらすといふなし されと吉祥院は天神の祖卿親是善卿の御故迹なれは神とならせ給ひても他に混せす思召靈地也 山岡有餘映巖阿增重陰とかや神靈もわきてとゝまれり 其故をれは左京大夫菅原淸卿は博學多才の譽まします 是によりて延曆二十三年秋七月唐使に撰れてくたり給ふに漸く明州の界に着んとする海上俄に惡風起り羅刹國に沈なんとす時に比叡山の開山傳敎大師入唐求法のため御同卿の御爲に大吉祥天女に祈らせ給ふ 大吉祥院天女と申たてまつるは求成就の大功德まします故御祈り有りし也 忽に大吉祥院天女中に現し風止波靜なり卿終[2]に無恙使節を勤め歸朝[3]し給ふ 願成就の故に傳敎大師とはからひまし/\[4]て天女の[5]り吉祥院を立て安置し鎭護國家の御祈禱とす 卿は多才故佛像をも能くらせ給けるとなん 是より利生日日に新なりは山城國也 山城を古は山背と書靑山四周り別て北方に山山重疊せるにより山うしろとなつくとかや 天女背後畫七寳山々を背にしてましますといふ經文の說相叶り天女山城國にまします事誠深因綠也。

參議是善卿も御子おはしまさゝりけるをふかくかなしひ給て吉祥天の御祈誓有けれはなく天神あらはれ給ふ 其御誓願により法華經普[6]賢經無量義經般若心經を書寫して吉祥院に奉納し給へり 天神の御母堂を氏と申し奉るめくみとおほす御心を以て家の風をもふかせてしかなと天神を樣々に御養育也。

天神御幼少の御時重病をうけ給ひし事有 氏無二の丹誠を盡し一七日吉祥院に參籠ありけれはに御癒也 其後菅蒸[7]相手つから觀音[8]の像をり法華經壹部八卷書寫して吉祥天に奉らる 菅家文草に書載かくれなき事也 其後吉祥院にて法華會を修す 吉祥院御八講と申て十月十七日より廿日まて四箇日大法會行る かゝる菅家代々の跡なれは天神の崇めさせしもことはり也

天神の事をあら/\申せは祖の家業を繼宇多天皇に仕させ寵榮光華ためしすくなき事也

六年九月の比門徒の人々吉祥院に集り五十の御年の賀を修せしめける時法會の面にのわら履はゝきしたるの願文に沙金を取添てやう/\步壽堂の前の案上に置て云事もなくき去りぬ あやしとおもひて開たりけれは傳聞菅家門客共賀知命之年弟子雖跡人間無名世上而數記淳敎之風多改惷味之古人有言無德不報無言不酬深感彼義欲罷不能故福田之地此沙金金以表中誠之不輕沙以祈上壽之無涯莫疑其人可求其志居北闕之以北遙贈南山之和尙とこそかゝれたりけれ 少僧都師にて讃歎しき忝も天子の修し給ひけるにや希代の事とそ富樓那の辯舌を演たまひける

其後御年長權柄いよ/\盛なりき醍醐天皇御年十四にて位につき給ふ 原時天神と宇多天皇の勅をて幼君を補佐す 後には左大臣天神は右大臣に任してともに萬機を行る 右大臣も長才も賢て天下の望なり 或時天皇院中に行幸の時天下の政務小大となく右大臣にまかせらるへしと云定めありて旣召仰せ給ひける 其事世にもれけるにや懣を含樣々の讒言をまふけて終にかたふけ奉し事こそあさましけれ

此時醍醐天皇幼年の故にや讒言にはせ給ひけん 此君の御一失と申傳え侍りし

昌泰四年正月廿五日大宰權權帥にうつされたまふ

天の下のかるゝ人のなけれはや
きてしぬれきぬひるよしもなき

とよみ給ふ誠膓も斷ぬへくそおほゆる都もく成行けれは心ほそくや思し召しけん北の方へかくそ申させ給ひける

君かすむ宿のこすゑをゆく/\も
かくるゝまてにかへりみしかな

北方是を御覽して血の淚[9]をなかさせたまひけるこそ御理とおほゆれ 此時北方田口氏は吉祥院におはしますとなん詩歌數多し謫中三十八首の詩誰か哀れをおこさゞらん世多小人少君子ひとり飛梅あるしをわすれすなん

都府樓の瓦[10]色觀音寺の鐘の聲聞にしたかひみるにつけものことに御歎をそふるなかたちとなれり

扨も無實の讒によりて彼恨入骨髓難思召けれは祭文を作らせ給ひ高山に登て七日七夜天にあふきて身をくたき心をつくして祈申させ給けり

七日滿する時黑雲一群天よりさかりて此祭文を取て遙の天にそあかりける 延喜三年二月廿五日沈左恨薨し給ふ 御年五十九歲 今の安樂寺を御墓と定て奉置それより靈驗世にあらはれ天滿大自在天神とならせ給ひけり 世中におそろしき事とも出來天下こそりてあかめたてまつる

讒をいはれしは天神の怨靈にせめられ忽に身をうせぬ その人こそあらめ子孫まて一時にほろひ同心者有ける類もみな神罰をかふむりにき。

朱雀天皇四年の比金峯山に日藏上人と申人有善相の子息淨藏の弟也 いとたうとき僧なりき 四月十六日より笙の岩屋にこもりて行法しける程に八月朔日午刻[11]に頓死して十三日にそよみかへり給けり 其程金剛藏王の善功方便にて天滿大自在天神のおはしますを見たてまつり又天神の御誓願をうけたまはる 若し人我が形を作り我名を唱て重せば其人を擁護せんとの御誓願也 よみかへりて後此よしを帝[12]に奏し申さる

當社天滿宮は吉祥院の御靈と申して其の頃よりはしまれり

一條院正曆五年正一位大政大臣の官位を贈り賜らせたまふ それより神慮たいらきけるにや一首の詩を託宣し給ひける

昨爲北闕蒙悲士
今作西都耻尸
生恨死歡其我奈
今須望足護皇基

此詩を一度誦せん輩は每日七度守護せんとそちかひまし/\けるとうけたまはる。

鳥羽院天仁二年より夢の吿ありて每年二月廿五日御忌日吉祥院にて御八講あり菅家のともがらまいりて是を行ふ 原敦基大江以言ごときの文人も吉祥院天滿宮にあつまりて詩文を作てまいらせてける

此地紙屋川日夜東流去て靑龍の象を表し神林には十六萬八千の御眷屬充滿して善に福し淫に禍す東寺西寺も程ちかし むかし天神異形を現し東寺の益信僧正に逢給ふ事今見るかことく不思議なり まことに功德華光の園菅家三代の芳觸也 三世一念の橋を越え一念三千の河水に心をすゝき一度步をひ頭[13]を傾る輩は受諾快樂願任心成就す 官位富貴を願へは是をあたへ無實災難をいのれは即退拂給ふ 智惠才學をねかへは是を示したまふ 二世の願望不叶という事なし 神明佛陀世に多しといへども天滿天神の御利生にしくはなし。 正直の心を以て信仰せは立ところに不施踵靈驗に預者也。

右吉祥院天滿宮綠起者振古傳來之書也 斥後神社破壞而爲風雨蠧魚損者不少焉予苟生于末葉而不能無憾也 今聊雇毛楮而終謄寫之功云爾

天和壬戌四月廿五日

菅原朝臣長義

[1]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[紀]で表記します。
[2]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[終]で表記します。
[3]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[朝]で表記します。
[4]原文は縦書きのくの字点「〱」ですが、ここでは横書きのため、以後すべて「/\」で表記します。
[5]原文は[]の異体字[](u2f80b)ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[像]で表記します。
[6]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[普]で表記します。
[7]「丞」の誤植と思われますが、原文のまま「蒸」と表記します。
[8]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[音]で表記します。
[9]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[淚]で表記します。
[10]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[瓦]で表記します。
[11]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[刻]で表記します。
[12]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[帝]で表記します。
[13]原文では本当に「頭」の漢字が横向きになっています。ちょっとした遊び心でしょうか?

更新日:2021/02/13