延暦二十三年(二十一年ともあり)七月清公卿は桓武天皇の勅により遣唐使として入唐す。
此時のことなり漸く明州の界に着かんとする頃海上俄に悪風起り羅刹国に沈まんとす。
時に比叡山の開山伝教大師入唐求法のため御同船なり清公卿等の為に大吉祥天女に祈らせ給う。
大吉祥天女と申したてまつるは所求成就の大功徳まします故御祈り有し也。
忽に大吉祥天女空中に現れ風止波静なり。
清公卿終に無恙使節を勤め帰朝し給う。
願成就の故清公卿は伝教大師とはからいましまして清公卿自尊像を彫刻し給いて、平城天皇御宇大同三年戊子六月庭上に一宇を建立し尊像を安置し吉祥院と号し国家鎮護の祈祷所とし又以て菅家守護の本尊とし給う。
清公卿は多才故仏像をも能造らせ給いけるとなん。
是より利生日々に新なり。
所は山城国なり。
山城は古は山背と書青山四周り別て北方に山々重畳せるにより山うしろとなづくとかや天女背後画七宝山々を背にしてましますという経文の説相叶り天女山背国にまします事誠深因縁也
(当社縁起干中)
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(一)菅家伝第一 干中
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『延暦二十一年七月清公卿桓武天皇の勅により遣唐使として入唐同二十四年帰朝云々 清公卿建吉祥院云々』
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(二)扶桑京華志三 干中
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『在二東寺西南一本尊吉祥天菅公御願』
(注) 天は天女 公は菅家の誤なり
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(三)日工集 干中
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『吉祥院京本寺南(仁和寺也)有二小院一号二吉祥院一天神之父本願所レ建也
為北野長者人必先参礼謂之拝堂昔天神之父使レ干二唐国一船中値風波難祈念之頃忽見吉祥天女現二身空中一及レ帰本土建レ寺以吉祥為名云按遣唐使有菅清公者菅公之祖父也
延暦二十三年秋七月与藤葛野麿、石川道益同発及徳宗貞元二十年也
明年大使藤賀能船着長州秋入洛(清公同船而帰)蓋此時之事也乎』
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(注) 父は祖父の誤なり
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(四)吉祥院天満宮古記録 干中
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『吉祥院のことを「吉祥天女院」とも「南北山海中寺」とも号し現今にては吉祥天女様といひ堂宇を吉祥院天女堂と称して存す。[1]
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(五)伝教大師伝 干中
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『大同三年戊子六月建立吉祥院』
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(六)京羽津根 干中
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『吉祥院天満宮 洛陽未申の方東寺四ツ塚より三町吉祥院村に在。
祭る処北野の神と同体なり、当社は菅家代々の領地にして別業ありし地なり
天仁二年二月二十五日菅神の霊告にいわく忌日は北野にて行えば当所にて八講行うべしと也。
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(注) 別業にあらず御本邸なり。
天仁は誤なり。
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吉祥天女の社あり其昔菅家の祖清公卿入唐して帰朝の砌難風にあいし時吉祥天女を祈願し遂に無難帰洛し、当地に勧請有しと也。』
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(注) 帰朝入唐の誤りなり
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(七)大日本通史 干中
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『最澄常に入唐の志あり遂に遣唐使菅原清公に従いて唐に之き云々』
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(八)十芥抄 干中
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『吉祥天菅家御願 在四塚(羅城門跡)西南四五町許』
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(九)国花万葉記別号山城名所誌羽二重 干中
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『吉祥院宮 東寺の未の方吉祥院村平林の中に有。
始清公祈願の故有て吉祥天女を此所に勧請す云々』
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(一〇)大日本地名辞書 干中
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『吉祥院は菅原氏の氏寺にして今浄土宗に属す。
元慶[2]四年菅原清公創建[1]
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(一一)山州名跡志巻之十一 干中
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『吉祥院 在同平林中 堂南向本尊吉祥天女 立像三尺許 作伝教大師云々
初め菅家の祖清公卿延暦二十三年七月に遣唐使として異朝に到る明州の湊に著んとするに海上風発って船漂流せんとす。
伝教大師始め最澄たりしとき入唐求法のために同船にあり即ち起て吉祥天女の法を修して其の平安を祈る。
法験感にこたえて忽ち順風と成って無異義入唐其後帰朝せり遂に清公卿と心を合せて吉祥天の像を造立す。
清公即ち此地を点じて堂宇を建立して天女を安置し号二吉祥院一也』
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(注) 三尺は六尺の誤か若くは本尊天女の像一時土中に埋めたる代り仏の寸法ならん。
作伝教大師とあるは作清公卿とすべきなり。
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(一二)日工集 干中
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『本寺南 有小院曰吉祥院天神之祖某本願所建也』
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(注) 本寺は京本寺のこと、某は清公卿のことなり。
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(一三)雍州府志 神社門 干中
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『清公入唐帰朝時海上風忽変船将覆干[3]時祈吉祥天女風止船無恙帰京後勧請吉祥天女云々』
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(注) 帰朝の時にあらず入唐の時なり。
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(一四)同 寺院門 干中
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『吉祥院 菅原清公之所建也、清公為遣唐大使洋中大風将覆船干時三井智澄為求法入唐在船中相共祈吉祥天女干時風止船無恙而帰朝時智澄造天女像清公安置之於宅地今吉祥院是也』
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(注) 智澄は最澄のことなり又天女の像は清公卿の造るところなり。
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(一五)つきねふ七 干中
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『吉祥院 唐橋の南、東寺の未申に森見ゆる其内なり。
菅丞相の御影、吉祥天女を安置す。
云々 諸々伝に功徳天を吉祥天といえり。
所視所至方能令下二衆生一受中諸快楽上』
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(一六)扶柔[4]京華志二 干中
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『吉祥寺邑 在二東寺西南一菅氏之宅地清公入唐之時洋中風悪祈吉祥天帰舶旡[5]レ恙祠其神今尚存焉』
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(詩[6]) 寺は院の誤なり。
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(一七)京都叢書京羽二重巻四 干中
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『吉祥院 東寺の南(寺中)』
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(一八[7]都名所図絵巻四 干中
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『吉祥院には吉祥天女を安置す伝教大師の作なり、云々、菅家の祖清公卿延暦二十三年遣唐使として異朝に趣く時に船中にして風波の難に値ふ。
此折しも伝教大師求法の為に入唐し則ち同船して吉祥天女の法を修す忽ち順風吹いて帰朝せり故に伝教大師吉祥天女の像を造る、清公卿は此地に堂舎を建てて此尊像を安置し吉祥院と号す』
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(注) 吉祥天女の像は清公卿の作なり。
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(一九)山城名跡巡行志第五 干中
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『吉祥院 在二当村一鳥居(東向)本尊吉祥天女(伝教作)右脇壇伝教像、左脇壇清公像』
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『菅家祖清公卿入唐時与二最澄一同船明州湊而風発漂二流船一其時最澄修二吉祥天法一得二平安一帰朝後清公与二最澄一合レ心作二天女像一安二此地一其後建二聖廟一』
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(二〇)洛陽名所集巻之十一 干中
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『吉祥院 菅家御願 此院は東寺の西なり。
吉祥天女の像有』
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(二一)京師巡覧集巻之九 干中
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『吉祥院村 これなる院は菅家の御願にして吉祥天女を安し侍る。
されば天下治る時は津々として天顔喜び侍臣喜ぶといえば周の文王は衆と霊台に慰こそ流行の広きところなり。
一肉をいみて楚の憂をさり。
四殆を陳へて斉の治まるを悦は女といえどもたのもし。
独り貿色猟を好むはうれたき心ならん。
褒姒は放火を笑い。
姐己は炮烙を楽む、又つたなし。
或は陶朱は五犢を楽み。
活然は一壺を喜。
哄堂満座に聞え。
胡盧は燕石による。
衛玠道を談ずれば平子絶倒し。
祖評事は長孫始て生る時。
纔に顔を解。
雉を射て漸く咲ひ。
或は虜を破て履歯の折事をしらず。
士の進て万戸に封せられ。
誕弥あしたにやすく。
魁梧そらに聞え又八珍を口に味い糸竹を耳にふるる時は。
一旦歓喜をなすといえど。
跡より患難起るは世のためしなれば人世口を開て笑ことまれなり。
薬山が一笑は澧陽九十里に聞へ。
要覧の四の喜は三菩提に至りや。
淵明が道勝て戚顔なしといい。
顔子が一瓢の楽み。
栄期は三楽をうたうもあり。
我が邦には千観つねに嗔れる色もなく。
徴笑のみ含ければ世俗その遺像を見て笑仏と称す。
これらみな心に物あればなり。
此天女のいつもにこやかにして。
福祐の尽ざるぞ。
いかなる徳なればと思いて。
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偶〻做ナセドモ二逢フ時ノ喜テ一。
必ズ多シ二別日悲一。
周文霊囿ノ袖。
段殷紂酒池ノ卮。
顔ハ破ル枯華ノ暁。
眉ハ披優ウ筏ハツ朞トシ。
人難シ二開レ口笑ヒ一。
君永ク解テレ頤イテ奇ナリ。』
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(二二[7]近畿暦覧記 干中
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『是より吉祥院村に至る。
高二千石の所なり。
伝聞古人初て菅原の姓を贈い。
清友に伝り遣唐使を勤む。
帰朝の時海上にて逆風俄に発り舟巳に覆んとす。
干レ時在唐留学の伝教大師も亦在二舟中一清友の勧により舟中にて吉祥天女に祈り玉へば、即時に風止舟無レ恙清友帰朝し。
是の所六町四方を乞い請け、吉祥天女を勧請あり。
菅家代々の氏神とせり。
(○印は誤記なり)
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(二三)吉祥院村三善院縁起巻物(天承元年五月十八日書写之竟) 干中
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『爰に吉祥天女院者伝教大師開基の霊地、菅清公卿建立の精舎なり七堂伽監玉を㻲ては金容の妙色を飾り三十六房薨[8]を並ては清浄のみこへ詑る事なし。
天女経に所謂吉祥宝荘厳世界とは豈此を去る事遠からんや。
菅丞相に到りて寺院栄昌たり左遷し給いて後、外護なれば教化陵夷し伽藍頽敗す』
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『伝教清公入唐 延暦二十三年七月
帰朝 同 二十四年
吉祥院建立 大同三年六月
天神勧請 承平四年』
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(二四)吉祥院村三善院巻物(元禄四載辛未五月五日謹書写焉) 干中
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『吉祥天女院建立之略縁起、吉祥天女建立の濫觴を尋ぬれば延暦二十三年秋七月伝教大師入唐求法の詔をうけ遣唐使菅原の清公卿にしたがい溟渤にうかび明州の堺に着給わんとし給えるとき悪風俄におこり船しづみなんとす。
此時伝教大師大吉祥天女に祈誓ましましければ感応むなしからず所念にしたがい光明赫曜として虚空に現しましませば風止波静にして渡唐求法したまいき。
帰朝の後清公卿伝教大師と相談ましまし清公みづから天女の像を作り伝教大師開眼ましまし則此処に伽藍を建立し安置ましましけり。此ゆえに吉祥院は清公、是善、菅丞相三代の氏寺なり云々』
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『伝教大師伝(委見干釈書第一巻)
大同三年戊子六月建二立吉祥院一
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(二五)北野誌 天神の古事巻物 干中
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『同吉祥院清公遣唐使のとき、伝度同船にて浪あれしとき、清公のため伝度祈し申、天女あらわれ舟をすくう。
帰朝の後、此両人作二天女一其とき建立の地なり云々』
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(注) 度は慶の誤か慶は教に通ず
吉祥院御建立以後菅家は吉祥院吉祥院と尊崇し給いければ終に清公卿の如きは菅原の姓の代りに吉祥院清公卿と公卿方々より呼ばれ給えり。
されば当地里人は菅原院を吉祥院殿と尊称し、吉祥院を本として方位方角を示すに至りしのみならず清公卿や是善卿を総て吉祥院様吉祥院様と呼び菅原院と言う者漸時少なくなるに至る。
[1] | 「』」がありませんが、原文通り表記します。 |
[2] | 原文に○印の説明がありませんが、誤記説明の記載漏れと思われます。 |
[3] | 「于」(ハネあり)の誤記と思われますが、原文通り「干」(ハネなし)と表記します。 |
[4] | 「桑」の誤記と思われますが、原文通り「柔」と表記します。 |
[5] | 「无」の誤記と思われますが、原文通り「旡」と表記します。 |
[6] | 「註(注)」の誤記と思われますが、原文通り「詩」と表記します。 |
[7] | 「)」がありませんが、原文通り表記します。 |
[8] | 「甍」の誤記と思われますが、原文通り「薨」と表記します。 |
更新日:2021/01/24