承和九年十月十七日清公卿御年七十二才にて薨じ給いしより毎年此の御忌日には、当吉祥院にて、吉祥院悔過法華八講会を修せらるこれを吉祥院御八講と称う。
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(一)吉祥院天満宮旧跡 干中
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当社より南六町余の地(田園中)清公卿の御墓と云ふ所今に存す。
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(二)菅家伝第一 干中
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『同(承和)九年十月十七日 薨 吉祥院八講是也』
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(三)菅家文草 吉祥院法華会願文 干中
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『又余家吉祥院悔過久用二孟冬十月一』
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(四)続日本後記抄 干中
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『承和九年十月丁丑文章博士従三位菅原朝臣清公薨故遠江介従五位下古人第四子也
父古人儒行高レ世不二与レ人同一家無二余財一諸児寒苦清公年少略渉二経史一
延暦三年詔令レ陪二東宮一弱冠奉レ試補二文章生一学業優長挙二秀才一
十七年対策登科除二大学少允一
廿一年任二遣唐判官兼近江権掾一
十[1]三年七月渡レ海到レ唐与二大吏一倶謁二天子一得レ蒙二顧眄一
廿四年七月帰朝叙二従五位下一転二大学助一
大同元年任二尾張介一不レ用二刑罰一施二劉寛之治一
弘仁三年秩満入レ京補二左京亮一遷二大学頭一
四年任二主殿頭一
五年拝二右少弁一転二左小弁一遷二式部少輔一
七年加二従五位上一兼二阿波守一
九年有二詔書一天下儀式男女衣服皆依二唐法一五位巳[2]上位記改従二漢様一諸宮殿院堂門閣皆着二新額一又肆二百官舞踏一如レ故朝議並得二関説一
十年正月加二正五位下一兼二文章博士一侍二読文選一任二参集謹事一
十二年叙二従四位下一転二式部大輔一尋任二左中弁一有レ不レ適レ意求レ遷二右京大夫一上従容問二京職大夫官品一清公朝臣対日正五位官即日改為二従四位官一左亦同レ之
十四年除二弾正大弼一
天長元年出為二播磨権守一不レ異二左貶一時人憂レ之
二年八月公卿議奏国之元老不レ合二遠離一更使レ入レ使都兼二文章博士一
三年三月亦遷二弾正大弼一兼二信濃守一復転二右京大夫一文章博士如レ故
八年正月授二正四位下一
承和二年兼二但馬権守一侍二読後漢書一
六年正月叙二従三位一老病羸弱行歩甚艱勅聴下乗二牛馬一到中南大庭梨樹底上斯乃稽古之力非二侚求所一レ致
其後託レ病漸絶二入内一仁而愛レ物不レ好二殺伐一造レ像写レ経以レ此為レ勒恒服二名薬一容顔不レ衰薨時年七十三[3]』
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[4] 菅家伝第一 干中
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『菅原清公卿 遠江介古人四男
嵯峨天皇御侍読右中弁始渡儒道三度入唐策両朝儒聴牛車 宣旨仁明天皇御侍読従三位
宝亀二辛亥年 誕生 桓武天皇延暦四年十二月甲申古人之男四人給衣粮令勤学以父侍読之労也(給料起始於此矣)
延暦三年補秀才、同年任美作少椽、二月廿五日策(黄帝湯武高卑釈季礼三教)四月十三日判不第 任大学少允、
同廿一年入唐、
同廿四年帰朝、
弘仁二年廿二才叙従五位下、
同三年(小寺後記)廿三才任左京亮、同月遷大学頭、
同四年廿四才遷主殿頭、同年正月廿五才叙従五位上、同月任右少弁、同年五月転左少弁、任式部少輔、任播磨守、
同十年正月叙正五位下 同年(注従四位時ニアリ)兼文章博士 (注弾正ノ次ニアリ)為侍読文選 同年任左京大夫、同年十二月叙従四位下、任式部大輔、転左中弁、
同十四年任弾正大弼、
天長十一年正月十二日兼摂権介、叙正四位下、
承和二年七月為侍読後漢書 同六年[5]蒙牛車宣旨、
同年十一月七日兼但馬権守 同三年二月転守、
同六年正月七日叙従三位(左京大夫博士等如元)
勅聴乗牛車到南大庭梨樹底依老病羸弱行歩有難之故也、
同九年十月十七日薨吉祥院八講是也、
建吉祥院又建文章院西曹司始祖也』
清公卿薨後子息参議是善卿後を継ぎ給いて当菅原院より日々朝廷に出仕遊ばされしなり。
参議菅原是善卿元二子おわせしが早世し給いて御子おわしまさざりけるを深く愁い給いて伊勢大廟及吉祥天女に御祈誓有りければ仁明天皇承和十二年て[6]丑六月二十五日当菅原院御本邸の南庭に天神あらわれ給う。
此所を七男畠と号す。
其御誓願により法華経、普賢経、無量義経、般若心経を書写して、吉祥院に奉納し給えり。
天神の御母堂を伴氏と申奉る。
めぐみとおぼす御心を以て家の風をもふかせてしかなと天神を様々に御養育也
(当社縁起干中)
[1] | 「廿」の誤記と思われますが、原文通り「十」と表記します。 |
[2] | 「已」の誤記と思われますが、原文通り「巳」と表記します。 |
[3] | 「二」の誤記かもしれませんが、原文通り表記します。 |
[4] | 「(五)」の記載漏れと思われます。 |
[5] | 「六月」の誤植かもしれませんが、原文通り「六年」と表記します。 |
[6] | 「乙」の誤植と思われますが、原文通り「て」と表記します。 |
更新日:2021/01/11