吉祥院天滿宮詳細錄 第四章 p82 - 88
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第四章 菅十八歲より凡十八年の歲月を經て御年三十六歲に至り當吉祥院菅原院御本邸に歸り給ひし迄での當地との關係

上屋敷に移られし後と雖も故里を忘れ給はず又御兩親は當吉祥院即菅原院にゐませる事なれば折につけては吉祥天女院に詣で給ひ御兩親の安否をしば/\御見舞給ひ御兩親御病氣の節などには御孝心深き菅のこととて直ちに參り給ひてお傍を離れず御看護ばされたり。

(一)吉祥院三善院緣起卷物 干中
『吉祥院は天神の故里なれば伽藍の外護とならせ折につけば詣給ふ云々』

貞觀八年二十二歲の五月七日文章得業生に補せられ給ひし 冬十一月二十五日是善卿に代りて顯揚大戒論の序文を作り給へり 是より圓頓大戒天下に弘まり天臺宗の面目大いにあがる、 されば天臺佛法の守護神として今に崇め奉るといふ。 此の序文は安惠和尙が當吉祥院へ來り是善卿に御依ョありしが當時律宗、倶舍宗、成實宗、法相宗、三輪宗、華嚴宗、眞言宗の七宗より種々の論多き最中のこととて菅を呼びて書かせ給ひしなり。

(一)菅家廟曆傳 干中
『菅子二十二歲云々 夏五月七日菅子補文章得業生云々 冬十一月二十五日菅子依家君敎天臺慈慧座主釋圓仁著顯揚大戒論序文云々』
(二)天神記圖繪 干中
貞觀八年霜月比叡山慈覺大師の御弟子安惠和尙と申ありけり、 かの山の戒壇建立は傳敎大師入唐して天臺宗を傳へたまひ、圓頓大戒を弘め日本國の羣生を救はんとて顯戒論といふ書三卷をかきて嵯峨天皇に奉りたまひけれども諸宗より彼是といなむに依りて、事延引し、いまだ勅許なきうちに崩御まし/\ぬ 淳和天皇御即位の後始て勅許ありて戒壇建立成就いたしけれども諸宗の爭論やまず慈覺大師また顯揚大戒論といふ書をかきたまへるに、既にかき畢りながら次第とゝのはぬ內に迁化なりぬ、 安惠和尙其あとを繼次第をとゝのへ十三卷淸書して菅家に序を賴みたまはんとて、菅原院へ御入來ありけるに相思ひたもふやう此書は容易ならざる大事也 我よりも彼君にとて菅かゝせたまひぬ、 是よりは諸宗口を閉て圓頓大戒天下に弘まれり云々』 又 『因に云此序をかゝせたまへる故を以て天神とならせ給へるのちは祇園北野と次第して天臺佛法の守護神と崇め奉り山王廿一社の內に安置し今も廻峰の阿闍梨は祇園及び北野へ廻りて法施をつとむるなり』
(三)菅家文草 干中
『顯揚大戒論序(貞觀八年家君敎天臺安慧座主製)
夫菩薩戒者流轉不滅之敎也 盧[1]佛傳之於前文殊師利弘之於後 故與彼談小乘而二門與此說聲聞異器而同響 我本朝馳神眞際業者偏執律儀[2] 硏精者更傳圓戒車而未歸晩南而必後師資不絕積常論者東西牙相矛楯殊恨保執者自謂除非小律儀 更無大乘戒 梵綱宗以爲沙彌宗三聚敎以爲非僧敎悲哉 知其一而未其二與談一レ者也 先師傳敎大和尙最澄者播聲異域遐方此專愚便約三寺之香火以討之是非 硯德肩隨群賢目擊仍撰顯戒論三卷以獻嵯峨皇帝天聽已畢宮車晏駕至承和皇帝[3] 特下勅詔創築戒壇之不墮貼之後際 慈覺大師圓仁者法門之領袖也 銜詔入學異方 十有餘載不下問深味皇帝殊賜褒寵之如神乃下詔 修建鎭國灌頂尸羅之敎以恢宏悉地之宗由茲〓[4]張田邑先帝親受大戒[5]百僚翹誠萬姓改今上即位 聽覽餘閑復受此戒太皇太后卿宰相同大歡喜叉手服膺旣而求之白業 天子有灌頂之儀[5]之玄門比丘設廻心之禮之爲貴亦復如是 然而局學之人寔繁有攀之慕漸存於心毀剝之詞未於口大師圓仁慨然長歎不晝夜博窺三權之膏盲新增一實之脂粉乃撰顯揚大戒論 槁草纔立條諸  未成乍寢疾藥石無驗即屬曰道適宿意此一論性命難期毘嵐忽至若有同宗 此願言縱雖目死骨不朽安慧定水長濁禪林早寒感先師之一言斯文於三覆手駈緇蠧口吹紙魚 一點一畵必加删正一二年來繕收甫就合十三篇勒爲八卷[6]幾傳之三際之十方使臆談者懸頭膚受者割上レ肉聊製拙文之篇首之好事者先師之有此志 丙戊[7]十一月二十五日釋安慧序。[8]
(四)北野誌(北野事跡) 干中
傳敎大師大唐にわたりて、圓頓の菩薩大戒をつたへて、叡山に戒壇をたてゝこの戒をひろめむとせしとき、 諸宗ゆるさゞりしかば大師顯戒論三卷をつくりて弘仁の天皇にあてまつり給しかば諸宗のうれへにもおよばずして十三年六月十一日に叡山の菩薩大戒の壇塲を建立すべきよし詔勅をゆるされき。 されども論者東西にあひたがひに牟楯せしかば慈覺大師この專惠をいたみ。 かの惑をかなしみて顯揚大戒論を撰給しに、藁草わづかに立して條緖いまだならざるに生命期しがたく毘嵐たちまちにいたりき。 屬してのたまひき。 もし同宗ありてわが願をとぐることのならば。 たとひ眼はとづといふとも、かばねはくちずしてうれしとおもはんと、安慧和尙先師の一言に感じて一二年の間に繕收はじめてなりて、あはせて十三篇勒して八卷として、 これを三際につたへ十方にひろめんとおもひて、手づからみづからくびにかけて菅相の家にいたりてこのふみの序かきて給らんとぞのみ給に相おぼしめしけるやう此序は朝家の樞鍵なり、衆生の依據なり、 みづからはえかゝじ、わが子なりとも、この君にこそかゝせたてまつらめとおぼして、かくときこへ給ければ、その時貞觀八年霜月のことなれば天神は御年わづかに廿一二にて、 つかさ位いまだあさく文章生にてまし/\けれども家君の命なればとてかゝせ給たりける序文をこそ、昨日けふまでも戒の大小の相論宗の檀實のあらそひあるには、 あら人神の筆跡なればとて規模の證據にはいたすなれ、くはしくは覺侍す、ところどころ申さむ云々とこそ。 かゝせ給たれこの文を見てこそ。 硯德も群賢もあはれぬでたき權者の內外の利益かなとぞ感嘆し奉り侍る云々』
(五)庿宗神傳上 干中
『今年冬十二月代是善天臺僧安惠慈覺大師所述之顯揚大戒論序 天臺家信是文左證矣』
[1]「那」の誤記と思われますが、原文通り「邦」と表記します。
[2]返り点「一」が余分なように思われますが、原文通り表記します。
[3]「承和」は第54代仁明天皇の元号なので、仁明天皇と判断しました。
[4]〓は[車册]の漢字です。
[5]返り点「一」の記載漏れと思われますが、原文通り表記します。
[6]原文は[]の異体字[](u2f88d)ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[庶]で表記します。
[7]「戌」の誤記と思われますが、原文通り「戊」と表記します。
[8]「』」がありませんが、原文通り表記します。

更新日:2021/02/14