第四章 菅公十八歳より凡十八年の歳月を経て御年三十六歳に至り当吉祥院菅原院御本邸に帰り給いし迄での当地との関係
菅公上屋敷に移られし後と雖も故里を忘れ給わず又御両親は当吉祥院即菅原院にいませる事なれば折につけては吉祥天女院に詣で給い御両親の安否をしばしば御見舞給い御両親御病気の節などには御孝心深き菅公のこととて直ちに参り給いてお傍を離れず御看護遊ばされたり。
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(一)吉祥院三善院縁起巻物 干中
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『吉祥院は天神の故里なれば伽藍の外護とならせ折につけば詣給う云々』
貞観八年菅公二十二歳の五月七日文章得業生に補せられ給いし
冬十一月二十五日父是善卿に代りて顕揚大戒論の序文を作り給えり
是より円頓大戒天下に弘まり天台宗の面目大いにあがる、
されば天台仏法の守護神として今に崇め奉るという。
此の序文は安恵和尚が当吉祥院へ来り是善卿に御依頼ありしが当時律宗、倶舎宗、成実宗、法相宗、三輪宗、華厳宗、真言宗の七宗より種々の評論多き最中のこととて菅公を呼びて書かせ給いしなり。
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(一)菅家聖廟暦伝 干中
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『菅子二十二歳云々
夏五月七日菅子補二文章得業生一云々
冬十一月二十五日菅子依二家君教一代二天台慈恵座主一作下釈円仁所レ著顕揚大戒論序文上云々』
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(二)天神記図絵 干中
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『貞観八年霜月比叡山慈覚大師の御弟子安恵和尚と申ありけり、
かの山の戒壇建立は伝教大師入唐して天台宗を伝えたまい、円頓大戒を弘め日本国の群生を救わんとて顕戒論という書三巻をかきて嵯峨天皇に奉りたまいけれども諸宗より彼是といなむに依りて、事延引し、いまだ勅許なきうちに崩御ましましぬ
淳和天皇御即位の後始て勅許ありて戒壇建立成就いたしけれども諸宗の争論猶やまず慈覚大師また顕揚大戒論という書をかきたまえるに、既にかき畢りながら次第ととのわぬ内に遷化なりぬ、
安恵和尚其あとを継次第をととのえ十三巻清書して菅家に序を頼みたまわんとて、菅原院へ御入来ありけるに相公思いたもうやう此書は容易ならざる大事也
我よりも彼君にとて菅公かかせたまいぬ、
是よりは諸宗口を閉て円頓大戒天下に弘まれり云々』
又
『因に云此序をかかせたまえる故を以て天神とならせ給えるのちは祇園北野と次第して天台仏法の守護神と崇め奉り山王廿一社の内に安置し今も廻峰の阿闍梨は祇園及び北野へ廻りて法施をつとむるなり』
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(三)菅家文草 干中
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『顕揚大戒論序(貞観八年依二家君教一為二天台安慧座主一所レ製)
夫菩薩戒者流転不滅之教也
盧遮邦[1]仏伝二之於前一文殊師利弘二之於後一
故与下彼談二小乗一者上一道而二門与下此説二声聞一者上異器而同響
我本朝馳二神真際一求二法道邦一先請レ業者偏執二律儀一後一[2]
研精者更伝二円戒一猶如下前途覆レ車而未レ帰晩進指レ南而必達上
自レ後師資不レ絶積レ習為レ常論者東西牙相矛楯殊恨保執者自謂除二非小律儀一
更無二大乗戒一
遂毀二梵綱宗一以為二沙弥宗一
貶二三聚教一以為二非僧教悲哉
知二其一一而未レ知二其二一
未レ可二与談一レ道者也
先師伝教大和尚最澄者播二声異域一得二道遐方一痛二此専愚一悲二此紛惑一便約二三寺之香火一以討二二途之是非一
硯徳肩随群賢目撃仍撰二顕戒論三巻一以献二嵯峨皇帝一天聴已畢宮車晏駕至二承和皇帝[3]一
特下二勅詔一創築二戒壇一将下伝二之不堕貼中之後際上
慈覚大師円仁者法門之領袖也
銜レ詔入レ唐遊二学異方一
十有余載不レ恥二下問一深味二道腴一皇帝殊賜二褒寵一待レ之如レ神乃下レ詔
修二建鎮国潅頂一尸羅之教所以恢宏悉地之宗由レ茲〓[4]張田邑先帝親受二大戒[5]百僚翹レ誠万姓改レ視曁二干今上即位一
聴覧余閑復受二此戒一太皇太后公卿宰相同大歓喜叉レ手服膺既而求二之白業一
天子有二潅頂之儀[5]訪二之玄門比一丘設二廻心之礼一道之為レ貴亦復如レ是
然而局学之人寔繁有レ徒追攀之慕漸存二於心一毀剝之詞未レ絶二於口一
我大師円仁慨然長歎不レ捨二昼夜一博窺二三権之膏盲一新増二一実之脂粉一乃撰二顕揚大戒論一
槁草纔立条諸
未レ成乍レ遭二寝疾一薬石無レ験即遺属曰貧道適有二宿意一撰二此一論一性命難レ期毘嵐忽至若有二同宗一
遂二此願言一縦雖レ瞑レ目死骨不レ朽安慧定水長濁禅林早寒感二先師之一言一備二斯文於三覆一手駈二緇蠧一口吹二紙魚一
一点一画必加二刪正一一二年来繕収甫就合十三篇勒為二八巻一
庶幾伝二之三際一頒二之十方一使下臆談者懸レ頭膚受者割上レ肉聊製二拙文一付二之篇首一或二後進之好レ事者一知三先師之有二此志一
丙戊[6]歳十一月二十五日釈安慧序。[7]
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(四)北野誌(北野事跡) 干中
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『伝教大師大唐にわたりて、円頓の菩薩大戒をつたえて、叡山に戒壇をたててこの戒をひろめんとせしとき、
諸宗ゆるさざりしかば大師顕戒論三巻をつくりて弘仁の天皇にあてまつり給しかば諸宗のうれえにもおよばずして十三年六月十一日に叡山の菩薩大戒の壇場を建立すべきよし詔勅をゆるされき。
されども論者東西にあいたがいに牟楯せしかば慈覚大師この専恵をいたみ。
かの紛惑をかなしみて顕揚大戒論を撰給しに、藁草わずかに立して条緒いまだならざるに生命期しがたく毘嵐たちまちにいたりき。
遺属してのたまいき。
もし同宗ありてわが願をとぐることのならば。
たとい眼はとずというとも、かばねはくちずしてうれしとおもわんと、安慧和尚先師の一言に感じて一二年の間に繕収はじめてなりて、あわせて十三篇勒して八巻として、
これを三際につたえ十方にひろめんとおもいて、手ずからみずからくびにかけて菅相公の家にいたりてこのふみの序かきて給らんとぞのみ給に相公おぼしめしけるよう此序は朝家の枢鍵なり、衆生の依拠なり、
みずからはえかかじ、わが子なりとも、この君にこそかかせたてまつらめとおぼして、かくときこえ給ければ、その時貞観八年霜月のことなれば天神は御年わずかに廿一二にて、
つかさ位いまだあさく文章生にてましましけれども家君の所命なればとてかかせ給たりける序文をこそ、昨日きょうまでも戒の大小の相論宗の檀実のあらそいあるには、
あら人神の筆跡なればとて規模の証拠にはいたすなれ、くわしくは覚侍す、ところどころ申さむ云々とこそ。
かかせ給たれこの文を見てこそ。
硯徳も群賢もあわれぬでたき権者の内外の利益かなとぞ感嘆し奉り侍る云々』
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(五)聖廟宗神伝上 干中
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『今年冬十二月代二父是善一為二天台僧安恵一撰二慈覚大師所述之顕揚大戒論序一
天台家尊二信是文一為二左証一矣』
[1] | 「那」の誤記と思われますが、原文通り「邦」と表記します。 |
[2] | 返り点「一」が余分なように思われますが、原文通り表記します。 |
[3] | 「承和」は第54代仁明天皇の元号なので、仁明天皇と判断しました。 |
[4] | 〓の漢字は[車册]です。 |
[5] | 返り点「一」の記載漏れと思われますが、原文通り表記します。 |
[6] | 「戌」の誤記と思われますが、原文通り「戊」と表記します。 |
[7] | 「』」がありませんが、原文通り表記します。 |
更新日:2021/01/10