吉祥院天満宮詳細録 第四章 p88 - 96
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貞観十二年庚寅菅公御年二十六歳の春正月大内記都良香朝臣の許へ至り給うに、折ふし人多く集りて、弓を射けるところへ行あいたまえり。 人々菅公を見参らせて思いけるは此君は儒士の家に生れ、常に万巻の書に心を用い給えば扉ばそを閉じ闍を出ずして学窓に向いて稽古の功をこそ積給うべけれ。 弓射ることは曽[1]て習い無して弓の本末をも知給わじ射させ参らせて笑わばやとて弓に矢をそえて御前にさしおき春の始にて候えば一こぶし遊ばし候えとぞ申ける。 固く辞し給えども、しいて請ければ、菅公さらば試にとて弓場にいで番の相手に立ならびて、推はだぬぎ弓に矢をさしはげて引わたし給いたるに進退皆礼にかない打上げて引下すより。 暫くしぼりて固めたる体目もあやにぞ見奉りける。 御姿の勝れ給えるのみならず切って放ち給える、矢色、弦音、弓倒など勢ありて逞しく矢所一つも違えず放給うごとに当りしかば、良香朝臣をはじめ見る人々皆思の外なる事に驚きあえり。 良香朝臣感に堪かねてみずから弓場に下りて御手を引き、酒宴数刻に及びて種々の引出物をぞ参らせられける。

其年の春都良香羅城門を通りけるに、春風暖に麴塵糸を乱せる柳の家々の垣根ごとに見えければ「気霽風梳新柳髪」と詠じたりけれども次の句を案じ煩たりけるに羅城門の上より、大にしわがれたる声にて「氷消浪洗旧苔鬚」とぞ付けたりける。 良香朝臣身の毛も立て恐ろしかりけれど、然すがに嬉しくて急ぎ菅家に参りて良香こそ羅城門にて佳対の句を作り得て侍れとて二句を申しつづけたりければ、菅公打笑わせ給いて哀れ人の物ほしげにおわする哉、 上の句こそ御自作の詞ともおぼゆる下の句に於ては鬼神の次たる者をや、君は賢才の士はおわさず、矯飾の人にておわしけるこそあさましけれと。 仰られければ良香余に心うく恥かしくて顔より火の燃出たる意地こそ覚ゆれ其よりぞ菅丞相は神に通じ給えりと知りたりける。

菅公御年二十七歳貞観十三年の末つ頃より御母堂伴氏御病気重らせ給いしより菅公は当地に参られ御傍を離れず御看護なりしが、御母公には此度は御本復あそばされ難く思召され菅公を枕辺に召して仰せおかれけるは、 汝幼少の時重病にかかりいと危うかりし故母が心に祈誓をこめ無事生長せば観世音の像をきざみ奉らんと発願せしより汝が病全快せり、其の後観音の像を作り奉らんことを思いて今日に至る、 我なき跡にて汝尊像を造立して此願を果すべしと云々  菅公嗚咽涙に呉れ給い御介抱遊ばされけれども其甲斐なく遂に翌年貞観十四年正月十四日当地に於て御逝去ましましけり。

(一)菅家文草 干中
『又先妣亡去之日試弟子曰汝幼稚之齢得病危困余心不哀愍之深奉造観音像之願念彼観音力汝病得除愈自汝有一レ禄割其上分 分寸相累用度可支発願之本雖汝身解緩之責恐為余累云々』
(二)天神記図絵 干中
『大伴氏の御墓所貞かに分りがたしといえども北野南の鳥居の側らに大なる石塔あり天神御母儀の塔と申伝う。 北野はもと伴氏の領地なるによりて此地に葬り奉りたるもはかりがたし。 今忌明の塔と称して忌明の日必ず此塔に参詣す』

同年正月渤海国より使者来ることとなり菅公は其の応対の役を受け給いしも御母公当吉祥院即菅原院にて御逝去遊ばされしを以て右の役目を御辞退ありて引こもらせ給いしが、 渤海国王への御返書は是非菅公に書かすべしとて五月二十四日別勅を蒙ぶりて認め給へり。

(一)聖廟宗神伝上 干中
十四年正月預渤海国使之接伴十四日丁母大伴氏之難存問渤海客使之職(一本在廿六日) 五月二十四日詔奪情強起之令渤海王制書 其文洋々乎被道化於異域是渤海之君臣遵皇化云々』
(二)天神記図絵 干中
『菅公御年二十八歳貞観十四年正月渤海国より使者来るべきよし申まいりければ存問渤海使とて応対の役儀を蒙らせ給いけれど同月十四日御母公大伴氏御逝去につきやがて右の役儀を御辞退ありて引こもらせ給う。 是より已前御母堂御病重らせたまい、この度は御本復あそばされがたくおぼしめし菅公をめして仰おかれけるは汝幼少の時病身なりし故母が心に祈誓をこめ無事に生長せば観世音の像をきざみ奉らんと発願せしより汝が病全快せり、 そののち作り奉らんことをおもいて今日に至る 我なき跡にて汝尊像を造立して此願を果すべし云々 菅公嗚咽涙に呉たまい御介抱あそばされけれども其甲斐なくついに御逝去ましましけり云々 此時存問渤海使は大春日朝臣安守と云人に仰せつけられ渤海の使逗留中の諸務相ずみけれど渤海国王への御返翰はやはり菅公にかかすべき由にて五月廿四日御服中ながら別勅を蒙ぶりて認めさせたもう云々』

貞観十五年正月七日菅公御年二十九歳にして従五位に進まる 同月十四日は御母公の一周忌に当らせ給えるが故に是善卿は法華経一部八巻普賢観経、無量寿[2]経各一巻般若心経一巻を紺紙金泥にて書かせ給い弥勒寺の講堂にて御追福の為に供養せらる。

(一)菅家文草 干中
『伏惟弟子慈親伴氏去貞観十四年正月十四日奄然過去及周忌先考レ二[3]写法華経一部八巻普賢観経、無量義経各一巻、般若心経一巻時也、 此院未立便於[4]弥勒寺講堂略説大乗之妙趣長逝之尊霊云々』
(二)天神記図絵 干中
『正月御母公一周忌に当らせたまいて父の相公御華経一部云々 弥勒寺の講堂にして第追福の為に供養せらる。 此時吉祥院いまだ落成ならざるに依て弥勒寺にて行われし也 弥勒寺の地貞かならずといえども是も城南にありしなるべし云々』

(注) 右文中「此時吉祥院いまだ落成ならざるに依て」とあり又「吉祥院法華会頥文中に「此院未立」とあるは創立にあらず 吉祥院は大同三年六月の建立なれば以来六十数年の歳月を経て大修繕を要すれば此の年再建造営中にて止むを得ず弥勒寺にて修せられしものなり。

貞観十七年菅公三十一歳の御時吉祥院鐘銘を作り給えり。

吉祥院鐘銘
科眼非器 遠覃是仁 和心播響
手成因 他利弘誓 我帰至真
魔降伏刃 創解摧
(一)右の銘菅家文草 干中
(二)菅家聖廟暦伝 干中
貞観十七年乙未菅子三十一歳云々 此年菅子作吉祥院鐘銘

此鐘後世破壊せしが寛保三年菅原為範再鋳して旧銘を写して今に存し現今にても使用しつつあり。[5]

菅公は母公の遺命をつつしみ朝務のいとま三四年来斉戒清浄にし自ら彫刻し漸く成しましましければ元慶三年夏の末頃父是善卿にまみえ観音の尊像建立の趣語り給いき。 是善は誠に善行なり余も力を協せ共に喜ばんとすよろしく来年まで待つべしと申されければ其の言に従い給えり。

(一)菅家文草 干中
『弟子奉[4]遺命三四年来雕飾纔成礼供猶闕自後朝恩不遺官爵過分云々 至元慶三年夏末風月之下定省之間以斯一念略達先考曰善哉汝作是言余建一弾[6]二部経最勝妙典依余発願 先年講畢法華大乗寄汝報恩共随喜唯念懸車已迫死門在前須明年云々』
[1]「會(会)」の誤記と思われますが、原文通り「曾(曽)」と表記します。
[2]「義」の誤記と思われますが、原文通り「寿」と表記します。
[3]返り点「二」は「写」の次にあるべきと思われますが、原文通り表記します。
[4]返り点「二」の記載漏れと思われますが、原文通り表記します。
[5]詳細録の書かれた昭和3年(1928)当時はありましたが、現在はありません。
[6]「禪(禅)」の誤記のように思われますが、原文通り「彈(弾)」と表記します。

更新日:2021/01/11