翌元慶四年には菅公従五位上式部少輔文章博士を兼給えり
御年三十六歳なり
御父是善卿は仁明文徳清和の三帝に仕えて御侍読を勤め何処へも出給わず終始当吉祥院菅原院邸より朝庭に御出仕遊ばし給い従六位下より参議刑部卿従三位に至り平常箸[1]し給いし東宮切韶二十巻、銀牓輪律十巻集韻律詩十巻、会分類聚七十巻を奉らる。
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(一)菅家聖廟暦伝 干中
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『貞観十一年菅子二十五歳云々
夏四月大納言藤原氏宗参議大江音人刑部卿菅原是善等奉レ勅撰二貞観格十二巻一云々
同十三年辛卯菅子二十七歳云々
秋八月右大臣氏宗奉レ勅撰二貞観式[2]預レ撰人右大臣氏宗左大弁大江音人式部大輔菅原是善近江守南淵朝臣年名下野助紀朝臣安雄等都八人也云々
同十六年菅子三十歳云々
秋七月天皇御二紫宸殿一引二明経博士等一令レ論二経義一菅家父子預レ之云々
同十七年乙未菅子三十一歳夏四月天皇読二五経史記郡書治要一菅原是善菅野佐世大江音人等侍読云々
元慶四年庚子菅子三十六歳云々
秋八月参議正四位下勘解由長官兼式部大輔播磨守菅原朝臣是善捐館矣平常所レ著之書有下東宮切韻二十巻銀牓輸[3]律十巻集韻律詩十巻会分類集七十巻家集十巻上
同月三十日菅子服解父云々』
元慶四年二月より父君是善卿御心地例ならず菅公は上屋敷より当下屋敷菅原院に来られ御側を離れず御看護御孝養ありしも其甲斐なく同八月三十日御年六十九歳にて薨じ給えり。
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(一)天神記図絵 干中
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『元慶四年二月の頃より父相公御心地例ならず菅公御側をはなれず御孝養あそばされけれども御老病なれば御疲労つよく同八日[4]晦日御年六十九にしてついにはかなく成らせたもう。』
父是善卿御臨終の夕菅公に申されけるは『命絶恨不レ及二孟冬悔過之期一
今日雖レ死生二彼月一為レ吾修二功徳一
延暦以来十月修二吉祥院悔過一父清公十月十七日薨云々』と遺言ありき
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(一)吉祥院天満宮旧跡 干中
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○菅原是善卿御墓 是善卿の御墓所は当吉祥院天満宮本社より南凡四町小字東条町の香泉寺内にあり。
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(二)年中行事秘抄 近代 干中
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『十月(月令孟冬日在レ尾斗建レ亥律中二応鐘一)
十七日吉祥院御八講事
元慶四年八月卅日辛亥参議刑部卿菅原是善薨臨終之夕言曰命絶恨不レ及二孟冬悔過之期[2]
今日雖レ死生二彼月一為レ吾修二功徳一
延暦次来十月修二吉祥院悔過一父清公十月十七日薨、五年十月廿二日丁酉菅家奉レ供二養吉祥院一給』
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[5]菅家伝第一 干中
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『是善卿 従三位清公卿四男母 弘仁三壬辰年 誕生 十一才七才徴侍殿上、
承和二年廿四才補秀才(母服中)同六年七月廿六日廿八才策、
同年十一月判中上、
同七年六月十日廿九才任大学少允、
同九年二月十日卅一才転助、
同年七月廿五日兼太内記、
同十一年正月七日卅三才叙従五位下、
同十二年三月十一日卅四才兼文章博士、
同十三年二月卅五才任越後介、任式部少輔、任陸奥守、
同十四年五月十日卅六才兼春宮学士(大内記博士等如元)
嘉祥二年正月十三日卅八才、任讃岐権介(博士学士等如元)
同三年四月十七日卅九才叙正五位下(御即位日越階)
同年侍読、
同年十月任加賀権守、(博士権介如元)
仁寿元年四月五日始講文選、
仁寿三年十月巳[6]卯奏請文章生未二出身一者及第之後不レ経二勘籍一預二考例一許レ之
同三年正月十六日四十一才任大学頭(博士権守如元)
斉衡二年正月七日四十四叙従四位下、
同年三月廿一日文選講畢、
同三年三月二日四十五才任左京大夫(博士如元)
同年兼修理東大寺大仏司長官
天安元年五月八日四十六才兼美作権守、
同年八月廿九日始講漢書、
同二年正月十六日兼伊与守(博士如元)
同年五月廿一日兼備前権守
同年九月廿三日兼播磨権守、
貞応[7]二年十一月十六日四十九才叙従四位上、
同五年二月十日五十二才任弾正大弼(博士如元)
同六年正月十六日五十三才任近江権守、
同年三月任刑部卿為侍読、
同年六月三日漢書講畢
同年[8]五十六才停博士
同十二年正月廿五日五十九才任伊与権守本朝文粋策家居内宦兼受領例文章博士菅原是善兼伊予守、
同年二月十四日任式部権大輔(卿如元)
同十四年八月廿五日六十一才任参議 同日任式部大輔(卿如元)任大輔事文時卿申状云如曽祖父是善卿者労僅三年(権大輔二年正大輔一年)
同十五年正月七日六十二才叙正四位下、
同十六年正月十五日六十三才兼播磨権守
同年二月廿九日兼勘解由長官
同十八年正月十四日六十五才兼近江守
同十九年(為元慶元)正月十五日六十六才兼刑部卿(兼官如元)
元慶三年十一月廿五日六十八才叙従三位(朔日叙位勘解由長官刑部卿如元)
同四年八月卅日六十九才薨、』
菅公は先に御母公を失い給い今また父君薨じ給いて当下屋敷即菅原院は空邸となればやがて紅梅殿即上屋敷より帰り給い、
御息子等を紅梅殿に移り住わしめて引籠藤の衣にやつれ日数を送らせ給いしが以後此地より朝庭へ御出仕遊ばされしなり。
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(注)拾芥抄 干中
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『菅原院菅贈太政大臣御所或云参議是善家也
北野祭日神氏来二此所一取二枇杷一供レ神
紅梅殿五条坊門北町面北野御子家或天神御所天神御所高辻西洞院東洞院面』
右の文に依りて当吉祥院菅原院は菅公の御所又は参議是善の家なりと云うも最もなり。
又紅梅殿即山陰亭は北野(菅公)の御子の家或は天神(菅公)の御所と云うも皆事実なり。
向ほ枇杷、橘、柿等を年々北野神社へ供えしことも事実なることを証するに足る。
是より後は中秋の月見の会は御忌月なるに依りて菅家には長く御用いなし。
九月十三夜を以て月見の宴を開かる。
此時を以て本朝十三夜月見の濫觴なりと申伝う。(天神記図絵干中)
[1] | 「著」の誤記と思われますが、原文通り「箸」と表記します。 |
[2] | 返り点「一」の記載漏れと思われますが、原文通り表記します。 |
[3] | 「輪」の誤記と思われますが、原文通り「輸」と表記します。 |
[4] | 「月」の誤記と思われますが、原文通り「日」と表記します。 |
[5] | 「(三)」の記載漏れと思われます。 |
[6] | 「己」の誤記と思われますが、原文通り「巳」と表記します。 |
[7] | 「観」の誤記と思われますが、原文通り「応」と表記します。 |
[8] | 「同九年」の誤記と思われますが、原文通り「同年」と表記します。 |
更新日:2021/01/23