吉祥院天満宮詳細録 第五章 p126 - 134
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寛平五年四月藤原時平公を春宮の大夫とし菅公をば春宮の亮に任じ給いしより時平公と肩を並べて春宮を輔佐し同六年には侍従に任ぜられ同七年正月近江守を兼ね十月中納言に任ぜられ従三位に進み十一月春宮の権大夫を兼給う 同八年菅公御年五十二歳の七月陳の座にて諸国の年貢取立方の御評定ありけるに菅公は下の為めによろしからざる事を改めんとの御心なりしに源光朝臣源希朝臣等は菅公に反対なりしが遂に菅公に云い伏せられしを不快とせり これも後に讒奏の端ともなりしなり、

同月十三日の早朝に在[1]少弁トナフ、大外記多治有友、左大フヒト大原史氏雄等を引具して右衛門府に行き給い左右獄中の罪人六十二人を引させ一々其罪状を御糾しありて内二人は重罪許すべからざるにより忽ちに頭を刎ねさせ内十四人は其罪疑がわしきによりて元の獄中に返され残四十六人を南門の前に引き出し菅公自ら仰せ渡されけるは、汝等犯す処の罪或は人を害し或は火を付け物を盗む等其の罪の次第によりて御仕置あるべき処帝別に思召さるるむね有りて此度は許し遣わさるるなり 重て違犯する事あらば其時は許すべからずと言いて悉く放ちやり給うに罪人ども皆頭を地に掌をすりて菅公を崇み泣くもありころぶもありやや暫くありて思い思いに立ち去りけり。 菅公即ち此由を奏し給う八月民部卿を兼給えり。

同九年六月権大納言に任じ右近衛大将を兼ね氏長者とならせ給う。

宇多天皇御道心深くましまして珍宝王位も臨終には随がわず此世ははかなくして夢まぼろしの如し 早く位を去りて無上菩提を求めばやと思召して或時菅公に向い御心中のことを密々御物語有りけるに菅公は叡慮の忝なきを思い、其時を失い給うべからず東宮御英明にてまします上は今暫し御生長を待たせ給うべしと奏し置きたまいけり、 東宮御年十二歳にならせ給い御元服あるべきにつき即日御位をゆずり給わんと思召しけと[2]ど御年未だ卅一歳にて今を盛の御代なるに内外のゆるさざらんことを思召して御心すこしたゆませ給い再び菅公に御内話ありけるに菅公押きりて奏し給いけるは是容易なる事にあらず 若し此度ためませ給わば御後悔ありとも及び申すまじきなりと申し給えるによりて帝も御決心遊ばされしとなん。 十月三日清涼殿にて東宮の御元服あり大夫時平加冠権大夫の菅公加手左中将定国理髪をつとむ 即日紫宸殿において御譲位あり時平公と菅公とは補佐の任を蒙り給えり。

(一)菅家聖廟暦伝 干中
七(寛平)年菅子五十一歳正月十一日兼近江守云々 菅子任中納言去大輔亮 同日叙従三位十一月兼春宮権太夫云々 八年七月復[3]奏囚人抅放云々 二十八日菅子兼民部云々 九年丁巳菅子五十三歳云々 六月兼右大将又為氏長者云々 七月十三日叙正三位云々 二十六日又兼中宮太夫云々 冬十月三日太子即位云々 昌泰元年戊午菅子五十四歳云々 此時天皇歳十三時平廿八与菅子相共受上皇之勅命佐幼帝行万機[4]云々』

寛平十年東宮御位に即かせ給いて昌泰元年と改元せらる 同月菅公正三位に進み中宮大夫を兼ね給う。

昌泰元年十月二十日醍醐天皇御鷹狩の節当吉祥院御本邸へ行幸し給いしかば菅公は御膳等を奉り給う、 天皇は終日当地方にて御放鷹あらせられ夜に入りて御還幸あらせ給えり。

(一)天神記図会天神垂跡要記巻三 干中
昌泰元年十月廿日醍醐天皇御鷹狩に出でさせたもう辰の剋供奉の人々南庭に参集す、 左右二行に分れて次第に進む、 鷹飼たかをすえ左右相対して前に進み、間牒犬を曳左右相対して後にあり、天皇御馬に召されて中央に打たせ給う。 其の行装の厳重なる事古今に稀なる行幸なり、 内裹[5]の西門を出て南へ行き三条を西へ、朱雀大路を南へ出給うに大路の東西物見の車を立ならべ拝見の貴賤群をなせり。 今日菅公は供奉し給わず吉祥院へむかえいれ奉りて御膳をまいりたもう、終日野山に御放鷹ありて夜に入て松炬をとりて還御なれり。 明れば廿一日太上天皇の御鷹がりなり供奉の人々には常陸太守是貞親王、右大将菅原朝臣参議源昇、右兵衛督藤原清経、左中将在原友、干[6]権中将源善、備前介藤原春仁、左馬助藤原恒佐、右衛門権佐藤原如道、中宮大進源敏相六位八人小童三人すべて廿二人、其余の下部数十人、淀美豆野カタ野のほとりを狩めぐりて御旅宿あり 今日紀長谷雄供奉さるべきの処昨日の御狩の折馬に足をふまれて随い給わざりしなり云々』

(註)案ずるに「御装の厳重なること古今に稀なる行幸なり云々大路の東西物見の車を立ならべ拝見の貴賤群をなせり」とあれば御供奉の方も太上天皇の御鷹狩の御装とはくらぶべくもなき御盛儀なりしならん これ御即位後初めての御行幸なればなり、 又「今日菅公は供奉し給わず云々夜に入り松炬をとりて云々」とあれば菅公は御準備の為めにして松炬の如きも六田家をはじめとし当里人等も種々奉仕せしものならん。

(二)吉祥院天満宮旧跡 干中
『みゆき道の旧跡』 醍醐天皇当吉祥院御本邸へ行幸の節御通過あらせられし道にして又朱雀天皇承平四年以降年々当聖廟(天満宮)へ御参拝の勅使参向の道ともなりしを以て此の名称今に存す。 又云菅公始め是善卿清公卿古人卿並御子達の御所へ御通勤の際御通り遊ばされし道なればみゆき道と尊称せりとも云う。

昌泰元年十月廿日は当吉祥院地方へ醍醐天皇の御鷹狩なり。 翌廿一日より十一月朔日まで十二日間太上天皇の御放鷹なり菅公始め重臣及下部凡八十余人を供奉せしめ給う、 初日は淀美豆交野のほとりを狩りめぐりて御旅宿、廿二日御放鷹し給いつつ大和に向わせられ、廿三日は御花寺を御順拝ありて途中より良因寺の素性法師(良因法師又良因朝臣)を呼びて供奉せしめ給う。 太上天皇手向山八幡宮へ参拝の節ぬさをもてと仰せられしが鷹狩のこととて何の御用意もなければ菅公は左の和歌を詠みて奉らる。

此たびはぬさもとりあえず
手向山もみぢの錦神のまにまに

良因朝臣

手むけてはつづりの袖もきるべきに
錦にあける神や返さむ

高市の郡菅家の山荘に入御 廿四日芳野現光寺を御順拝ありて郊院にて御止宿、廿五日宮滝を御覧じて御愛賞限りなし、

宮のたきうべも名において聞えけり
落る白泡の玉と見ゆれば 御製

水引の白いとはえておる機は
たびのころもにたちやかさねん 菅公

それより竜門寺に御順拝ありて菅公の御母伴氏のゆかりある野別当伴宗行が家に至り給う。 二十六日は御休み、廿七日御出立廿八日立田山を経て河内国に入り給い廿九日良因朝臣に別れ給い三十日住吉に御参詣十月朔日還御ましましける、 此度御幸の記を菅公書かせ給いて奉られしがこれ末代鷹道の亀鑑たり、 時に菅公五十四歳なり。

翌年菅公の北方政所には御年五十歳にならせらるるに依つて御女の女御衍子紅梅殿へわたらせたまいて御賀を取行わせ給う。 これ衍子のせつなる御心により特に御子達の住み給える紅梅殿にて行われしならん。

[1]「左」の誤記と思われますが、原文通り「在」と表記します。
[2]「れ」の誤記でしょうか?
[3]返り点「二」の誤記(活字が180度回転)と思われますが、原文通り上に「二」と表記します。
[4]返り点「一」の記載漏れのように思われますが、原文通り表記します。
[5]」の誤記ですが、原文通り「」と表記します。よく似ていますが別の意味の漢字です。
[6]「干」は「于」の誤記で、語順も「友、干」は「友于、」の誤記ですが、原文通り表記します。

更新日:2021/01/24