5 文章院聖堂跡 菅公祖父清公卿の創造にして紀伝の学校なり
之れを吉祥院孔子堂とも吉祥院孔廟とも、北堂の孔堂或は文章院聖堂とも号し祭祀饗宴の礼も厳かなりしなり
菅公殊に尊崇し給いて門人を率いて屢此所に会し給い又菅公五十の御賀を修せられしも此処なりしが天正十八年豊臣秀吉社領を全部取り上しより廃失す。
されば度々再建せんとせしも成就せず今日に至る。
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(一)吉祥院天満宮古記録 干中
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『文化九年申十一月、孔子堂積り書
一孔子堂絵図面之通三間ニ弐間半小棟造り並ニ前ニ庇し付右木品之分左之木寄之通虹梁蟇股外肘木等入三方串形船肘木造り屋根ニ虎魚付総瓦茸[1]根本茸[1]
一式可仕候事
諸入用物 木寄
一前張柱二本 | 桧(長一丈、七寸角) |
一虹梁一挺 | 同(長九尺、七寸五分ニ五寸) |
一海老虹梁二挺 | 同(長六尺、五寸ニ一尺) |
一桁三挺 | 同(長一丈、五寸ニ七寸) |
一瓶束二ツ切一本 | 同(長六尺、六寸五分角) |
一雲板二枚 | 同(長三尺、厚三寸、巾尺五寸) |
一片蓋海老虹梁二枚 | 同(長六尺、厚二寸五分、巾尺、 |
等あと八十種あれども略す。
〆銀六貫五百目
石方
一草盤石二ツ | 損渡一尺一寸高六寸 |
一側柱石拾二(外ニ草盤根石) | 尺二寸六面切出八寸四方高サ三寸 |
一内陣柱石二ツ | 尺五寸六面切出一尺四方高三寸 |
一地復さし石拾六本 | 長五尺四寸ニ三寸折迫磨 |
一同三本 | 長七尺五寸 同行 |
等あと八種あれども略す。
〆一貫五百五十目
織物方
一唐戸六枚 | 蝶つがい |
一同一口 | 𪭜金物並鶴付 |
一同四枚 | 軸元八双 |
等あと五種あれども略す。
〆銀六百拾五匁
一六貫五百目 | 木寄之分一式 |
一一貫五百五十匁 | 石方一式 |
一六百十五匁 | 織物方一式 |
一一貫七百目 | 瓦方一式 |
一三貫四百六十目 | 大工手間一式 |
一百六十目 | 左官方一式 |
一四百五十目 | 手伝方一式 |
一二百四十目 | 士[2]葺一式 |
一百七十目 | 砂利 |
総〆銀十四貫八百四十五匁
右之通随分々々入念無相違一式請負ニ而可仕候事
文化九年申十一月 伊勢屋五兵衛
石原市之[3]様』
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(二)吉祥院天満宮古記録 干中
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『洛坤吉祥院社
募建大聖堂疏 幹事
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吉祥院村聖堂は菅家遠祖左京太夫文章博士清公卿の創造し給いし処なり
此所羅城の西南にあたりて当時菅家の預り居られし文章院という紀伝の学校なり
此学校に属せし聖堂也
此堂の聖像と申は吉備大丞入唐の弘文館に在るところの画像を持て帰朝し大宰府学業跡に置き其后百済の画師に命じて模写せられ其本図は京師の大学寮に置れ大学寮廃せし後々時文章院に移されし也
是清公卿の時にあたる
其後相継で北堂の孔廟と号し祭祀饗宴の礼厳也。
天満天神も殊に尊崇ましまして門人を率て屢此に会し給う五十の御算を賀せられ、寛平法皇沙金をせい賜しというも此所なり。
吉祥院も清公卿の建立し給いし也。
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天満宮は、朱雀天皇承平四年より此所に霊魂を祭らるいずれも聖廟並びたり。
朝廷の御崇敬も他に異にして祠官の徒を三位の貴級までのぼ[4]せ給いたり固レ元吉祥院の聖廟と呼しなり、
足利将軍尊氏公の時に至り朱印を賜り境内一円[5]社領たり、
天正十八年豊臣家より朱印を奪れ僧坊等も散失して祠官の家のみ残る也、
吉祥天女別当職を兼て今に至る、
固レ之本社末社にいたるまで頽破に及びしゆえ聖廟もいつの比よりか廃墜して聖像のみ本社に秘蔵して世に知るもの稀なり
かかる尊き孔廟終に絶果んこと神慮の程も其恐れ少からずいかにもして此堂を再建し儒士を招請し釈菜の儀を浸し講習の業を興んと大願を発し寛延年中、公廷に祈奉り其許を蒙り己に地を鏟し石を築に及しかとも其費夥く力及ひ難くして事やみにき
近頃寺社の司参詣し給いかかる所の廃れしを歎しく思召よし懇命あり固て又志を奪い素願を読成んと同士の徒をかたらい遠近の助力を祈り奉る事とはなりね[6]
伏て願わくは四方有志の君子某等が誠〓[7]を憫察して不抱多少施入の恵を寄給はば千載以来の聖廟を興立し天神の冥慮を安じたてまつらん事日を期して成就すべき
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文化十一甲戌夏
天満宮御誕生所
京都 吉祥院社印』
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(三)吉祥院天満宮記録 干中
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『聖堂再建
寄付物請取扣 吉祥社印
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寺町通二条下ル妙満寺町 | 年寄 | 五郎兵衛 |
同押小路下ル上本能寺町 | 同 | 袋屋与三郎 |
白銀一封二匁三分出雲寺請取 |
同御池下ル下本能寺町 | 同 | 善右衛門 |
白銀一封二匁五分出雲寺請取 |
同姉小路下ル天姓[8]寺前町 | 同 | 宮崎平兵衛 |
青銅二百銅出雲寺請取 |
(中略す) |
寺町四条下ル貞安前町 | 年寄 | 八幡屋清右衛門 |
白銀一封二匁北村請取 |
同綾小路下ル中之町 | 同 | 鍵屋新兵衛 |
白銀一封二匁北村請取 |
同高辻下ル遵池町 | 同 | 柳屋佐渡 |
鳥目二百銅 北村請取 |
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(以下略す)但し氏名のみ記せば
横山清兵衛。丸屋久兵衛。太和屋清兵衛。堺屋八郎兵衛。近江屋新兵衛。同太兵衛。大阪屋利兵衛。同又右衛門。井筒屋次兵衛。鍵屋八十右衛門。菊屋利兵衛。近江屋勘十郎。舛屋勘兵衛。伊予屋清右衛門。
近江屋勘兵衛。山形屋安兵衛。平野屋治兵衛。三原屋吉兵衛。若挟[9]屋勘右衛門。泉屋幸次。延台屋嘉兵衛。松坂屋善兵衛。伊勢屋叉四郎。同次兵衛。丸岡屋平兵衛。河内屋長兵衛。銭屋久兵衛。堺屋庄兵衛。
辻。なつみや五郎兵衛。銀座知善所清七。会所清七。同上。同上。橋屋利右衛門。富士屋利右衛門。大坂屋次郎兵衛。鍵屋喜兵衛。近江屋市右衛門。惣兵衛。大黒屋理右衛門。白木屋七右衛門。日野屋弥平次。半右衛門。わく屋源助。升屋吉右衛門。桑名屋佐兵衛。伊勢屋安兵衛。小倉屋長兵衛。越後屋宇兵衛。尾張屋勘兵衛。八文字屋為右衛門。清兵衛。惣次郎。津国屋七兵衛。松屋早兵衛。亀屋仁兵衛。革屋六三郎。
以上寄付者。
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文化十二乙亥年九月 石原定弼印』
[1] | 「葺」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
[2] | 「土」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
[3] | 他は「市之進(進)」であり、「進(進)」の脱字のように思われますが、原文通り表記します。 |
[4] | 「ら」の脱字のように思われますが、原文通り表記します。 |
[5] | 原文はくにがまえ「囗」の下の線が消えていて、けいがまえ「冂」のように見えます。 |
[6] | 「ぬ」の誤記かもしれませんが、原文通り表記します。 |
[7] | 〓の漢字は[生困]です。 |
[8] | 「性」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
[9] | 「狹(狭)」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
更新日:2021/01/23