吉祥院天滿宮詳細錄 第六章 p173 - 180
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第六章 菅薨後の一端を載せ當社寳物菅繪傳十二幅の參考に資し叉以て菅靈のあらたかなる事をも表はさんとす

(一)當社緣起 干中
『讒をいはれしは天神の怨靈にせめられ忽に身をうせぬ。 その人こそあらめ子孫まで一時にほろび同心者有ける類もみな神罰をかふむりき云々』
(二)菅家廟曆傳卷之下 干中
『李江曰夫明君王天下則必揀賢臣帝堯舜重仁者 而四海安泰麟出鳳瑞彩[1]布焉闇主帥國家則必寵侫人諫臣 而八荒暴亂賊屯兵起妖荐焉伏惟如我日邦仁明文德淸和陽成光孝宇多諸天子皆揀才賢近習侍從補闕親會群臣酌律令論經書月嗜文章日製詩賦 吁此菅六朝在世百餘稔之間天現慶雲或降甘露地生靈草異木民献奇獸瑞鳥諸產輸貢干幾內者 此依君愛各臣也 曷爲菅右亟薨之後醍醐朱雀村上冷泉圓融崋山一條七世之間時候不常樹木華實三光現異猛風暴雨雷地震山崩石裂神出鬼行炎旱時霜季多有玄冥回祿之災 加施卿朝臣橫死狂疾諸民百姓疫疱凍餒草竊靡徃來頑兵濫冠干塞外者舊依闇主寵侫人也 至哉 菅亟相成大威德天神昔日讒怨十六萬八千眷屬暴惡神此凶相怪異危難災害祖稱不了禍及子孫七王 金輪嚴威不菅氏舊怨爰歷代諸君皆畏靈驗自幸神祠或献勅慶法坊重眞乘者誠假神明佛陀之冥助以禱四海安寧也 嗚呼者何耶阿〓[2]佛之應化石上大明神菅亟相此十一面觀自在人之聚會豈止偶然而已哉 若有三敎會人早鑿此手段乎』
(三)天神記圖會菅家廟曆傳 干中
『菅薨去の後幾程もあらず叡山の座主法性房尊よもすがら行ひ澄してあはしけるにおもひかけずの妻戶を叩く音のしければ法性坐を立ちて押開き給ふに菅御化來ましませり 法性畏まりて持佛堂へ誘ひ奉り何故に來ませしぞと問ひ給へば菅仰られけるは、 我罪なきよしを天帝に訴へ仇を報ぜんと乞ひしに許しを受けたり、 今は神祇の諫めもあるまじきなり、 王城にづき生前の愁をのべ恨を晴さんことを思ふ 譬ひ勅定なりとも法驗をもつて押へたまふこと有べからず 從來師檀のよしみ此にありと御勅あるに法性答へ給ふやう、 仰はさる事に候へども天下は皆王土なり 此國に住はべるからは勅使三度に及ひなば其時はいかが仕らん と申されけるに菅御顏色ふと變らせ給ひ御怒胸に攻りたる御樣子なれば法性御喉の乾かせ給ふらんとて側にありける柘榴をめされよとて出し給ひければ菅其柘榴をとりて噛碎き妻戶に吹かけて出給へるに柘榴一むらの炎と成て燃あがりけるを法性酒水の印をむすびて打けしたまへりとぞ。

延喜三年六月滿天黑雲忽ちふさがり恰常闇の如し、 大風大雨いつ止むべくもあらざりしに雷神淸凉殿を離れず七日七夜鳴上り鳴下り百千萬[3]いたしければ帝を始め奉り上下の人々恐れをのゝき肝魂も身に添はず臥まろびてぞおはしける。 左大臣太刀ひきぬき雷神の方をにらみ、生前には我下にみそ付給ひたれ、今神と成給ふともいかで我にせではあるべきぞと攻め給ひけるに少々鳴鎭りたる樣なりしが忽ち霹靂一聲御殿も裂るばかりなりければ帝さわがせ給ひ貞信(忠に向ひ今日の守護神は何神なるぞと問はせ給ひけるに空中に稻荷大名神といふ御聲のほのかに聞えて貞信の御佩しの柄頭に白狐姿を顯はしけるにぞ少し御心づよくおぼしけるとぞ。 かゝる間山門に御使ありて法性を召れけるに參り給はず御使三度に及びてやうやく御下山あり。 此時鴨河みなぎりて水勢强く渡り給ふべきやうもあらざりしに御[4]車を打入れさせ給へば即ち浪雙方へれて地を行が如し法力もめでたく王威も又おそろしかりしとぞ。 法性參內して立廻り御加持ありけるに、雷神法性の方をさけて鳴めぐりたりしがに法力に押れて一度は鎭り給ひけり。

同六年七月三日原定國卿新に神罰を受て薨じ給ひぬ。

同九月勢州鈴鹿山の群盜を捕へ其の張本一十六人を誅す。

同八年十月原朝臣菅根打續神罰を受て失給ひぬ。

同九年四月四日左大臣神罰を𫎇りて失せたまひぬ、 御年三十九、御病中護持僧を召れけれど法師皆恐れて參る者なし、 三善の淸行が子に淨藏貴とて目出度法驗の僧あり殊更に召れて御加持まいる程、淸行側より窺ひ見れば左大臣の耳より靑き蛇頭を出して淸行に向ひ我は權帥なるぞ 汝が子淨藏我を攻む、呼のけよといへり 此蛇淸行が目にのみ見えて側の人はすべて知らざりき。 淸行身の毛もよだちて恐ろしく思ひ淨藏を陰に呼びてかくと吿たりければ淨藏も恐れて退きぬ。 此時左大臣頓に息絕え給ひけりとぞ。

同十年夏六月大旱天變恎異なり

同十三年右大臣源光卿鷹狩に出たまひけるに馬に乘ながら野澤の泥の中に馳込[5]で其儘人馬共に行かた知れずに成給へり、數多の人して泥中を求むれども死骸更に知れざりしとぞ。

同十四年夏五月二日京師六百十七家火災六月大水皆依菅靈崇[6]

同十五年夏天下に疱瘡流行し天皇も之に患ひ給ひしが增命を宮中に召して眼を合せて持念せしめ給ひしが安泰となる、秋七月五日二剋太陽暉無くして形月に似たり。

同十六年夏五月二十一日大風雨にて鴨河溢れ洪水となる、冬十月宮中に怪異ありしが增命を召して加持せしめてまる。

同十七年冬十二月朔日東大寺火災にかゝり講堂僧房百二十四間燒失す。

同十八年大洪水にて淀河は海の如なりて舟行を止む。 同十九年七月五日天皇增命を仁壽殿に召して金剛般若經を受け給ひ七日には妙法華經を受け給ひ侍臣卿及原在衡卿をも共に聽しめ給へり。 同二十二年夏大旱にて草木枯死す。

同廿三年正月右大辨俄に死せり、 三日を經てよみがへり我子信朋[7]信孝を呼て曰く我を扶け參內をさせよ、 帝に奏し奉るべきことのありと云、 兄弟聞て始の程は心氣錯亂して妄言をするにやと思ひたるに其詞親切にして度々に及びければ兄弟命のまゝに打添ひて參內せり。 帝何事を申にやと驚き召れけるに奏して曰 臣死して琰魔王宮に至る處冥官卅人ばかり並びたる前に、身の長あまりにて衣冠麗はしき人、金の札を捧て曰 罪無を罪に行ふ其罪無量なり、我欝[8]悒を晴さんことを思へども三寳の加護あるに依てに行ふことを得ず されど時すでに至れり、冥官許し給はんやと申けるに第二に着座したる冥官打笑ひて曰、 日本國延喜の帝、頗る荒凉なり、改元のなき先にに恨を報ぜらるべしと云り、彼人は菅にてまし/\けるなりと云り 帝叡聞ありて恐れ給ふ。

抑菅薨去の後天神と成給ひしより古今理ありて志伸ざるの幾魂寄集りて十六萬八千の御眷屬となれり、 國土の災害はすべて御眷屬の業なりとぞ、 さればにや延喜八年より同廿二年の頃まで大火、大風、滛[9]雨、洪水、雷火、地震、疫疾、疱瘡さま/゛\の天變地妖打續きて上下菅靈の御崇[6]なりとて恐をなさずと云ことなし。

堵又其頃(廿三年)菅淸凉殿に御化現ありて直々龍顏に向ひ罪なきよしを訴へ給ひしこともありしとぞ、 同三月廿一日皇太子保朋[10]親王御病無きに俄かに失せ給ひ御母の女御も打續きて失せ給へり(の御息女)[11]
[1]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[彩]で表記します。
[2]〓はもんがまえ「門」の中に「炎」を組み合わせた漢字です。
[3]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[]で表記します。
[4]「法」の誤記のように思われますが、原文通り表記します。
[5]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[込]で表記します。
[6]「祟]の誤記と思いますが、原文通り「崇」と表記します。
[7]「明」の誤記ですが、原文通り表記します。
[8]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[欝]で表記します。
[9]原文は[]の異体字[]ですが、フォントによる表示ができないので、以後すべて[滛]で表記します。
[10]「明」の誤記と思いますが、原文通り表記します。
[11]保明親王の母親は藤原基経の娘の藤原穏子(おんし/やすこ)で、天暦8年(954)に亡くなっています。 保明親王の妃の藤原仁善子(にぜこ:時平の長女)が産んだ第一王子の慶頼王(やすよりおう:時平の外孫)が、保明親王の薨去2年後の延長3年(925)に亡くなっており、これらの情報が錯綜しているようです。

更新日:2021/02/13