吉祥院天満宮詳細録 第七章 p194 - 198
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第七章 吉祥院天満宮創祀

(一)吉祥院天満宮縁起 干中
朱雀天皇承平四年の比金峰山の日蔵上人と申人あり 善相公の子息浄蔵公の弟なり、 いととうとき僧なりき 四月十六日より笙の岩屋にこもりて行法しける程に八月朔日午刻に頓死して十三日にぞよみかえり給けり 其程金剛蔵王の善功方便にて天満大自在天のおわします所を見たてまつり又天神の御誓願をうけたまわる 若人我形を作り我名を唱て尊重せば其人を擁護せんとの御誓願也よみかえりて後此よしをに奏し申さる。 当社天満宮は吉祥院の御霊と申して其の頃よりはじまれり。』

日蔵上人よみかえりて直ちに内裏にまいりて此のよしを朱雀天皇にこまかく奏達せられける天皇早速菅公の御幼少の尊像を御宸刻ありて菅公に由緒深き此の地に菅神の霊として奉祀し給いて天満大自在天神と尊称し年々勅祭を給い行いきされば此社は勅命を以て菅公を祭り給いたる最初のものにして由緒正しき御社なり時は承平四年なり。 是より吉祥院聖廟又吉祥院本廟又吉祥院御霊或は吉祥院とのみ尊称して鳥羽天皇天仁二年より毎年二月二十五日の御忌日には勅命を以て御八講を修し給いしものなり

其の他当社の御神号として、吉祥院の宮、吉祥院天神、吉祥院天神堂、吉祥院天神御霊、吉祥院宮、吉祥寺社、吉祥院天神社、吉祥院威徳天神、吉祥院天満大自在天神、吉祥院社、吉祥院祭、吉祥院威徳天満大自在天神、吉祥院御聖廟、吉祥院天満宮、等と申し奉る。 当社御神霊の御在世並薨去以後の御尊名は阿呼、三、吉祥丸、菅三、菅子、菅原道真、神君、菅少将、真君、真御殿、右公、菅相、右相公、右府公、右公[1]、菅贈相国、右僕射、菅丞相、菅右相府、右府、菅公、菅原朝臣、菅家、菅霊、菅神、天神、天神御霊、天満天神、北野霊、北野、威徳天神、天満大自在天神、天満宮、北野御霊、吉祥院、吉祥院御霊、吉祥院聖廟、等と申し奉る。

(二)吉祥院村三善院縁起巻物 天承元年五月十八日書
『厥後清行公の御子日蔵上人大政威徳天の浄土に到又延喜帝地獄に御座りけるを見奉本土に帰りし頃より吉祥院の御霊とて天満宮を天女の地に勧請ありければ其より後は十一面観音の像(菅公御自刻)を天神の本と仰せ給いけり。  天神勧請承平四年
(三)同別巻物 干中
『吉祥院は清公、是善菅丞相三代の氏寺なり されば此地に天満宮を勧請する事は菅公の世にましましける時の故郷なればなり。』
(四)雍州府志 干中
『吉祥院菅社薨後建社祭之』
(五)吉祥院天満宮古記録 干中
日蔵上人は前記の如く笙の岩屋の事どもを奏上せられけるに朱雀天皇早速菅公御幼少の尊像を御宸刻ありて由緒深き当地に祠り給いしと同時に日蔵上人も亦自ら菅公の尊像を刻みて共に菅霊として本社に納め祀れる御社なり
(六)日蔵上人は三善清行卿の子息浄蔵貴所の弟なれば共に東寺の西辺りに住居し常に吉祥天女院に詣でられ且つ三善院浄蔵寺は前記の如く父兄の創建なればこれへも度々詣でられ笙の岩屋のことどももあれば吉神[2]院天満宮創祀上大なる深き関係あることも証するに足る
(七)大日本地名辞書 干中
『吉祥院は菅原氏の氏寺にして菅原清公創建 後世道真の霊廟を此に立てたるより天神御霊又は聖廟と称す
(八)北野宮寺縁起取要 干中
承平四年四月十六日日蔵上人参籠干笙窟七日之間入滅見当社之御威徳並御在所
[1]「右公」が2回登場していますが、原文通りです。
[2]明らかに「祥」の誤記ですが、原文通り「神」と表記します。

更新日:2021/01/24