第八章 皇室と吉祥院天満宮との関係
吉祥院天満宮古記録 干中
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(一)吉祥院天満宮の御神霊は人皇第六十一代 朱雀天皇承平四年八月かの日蔵上人、笙の崫にて受けし菅神の御告を奏上し給いしより、帝は直ちに菅公御幼少の尊像を御宸刻ありて菅公の神霊として吉祥院孔子堂即文章院の西に奉祀し給う。
是れ勅命を以て菅霊を祀うれたる最初の御社なり。
是れより吉祥院聖廟と号し年々勅祭を執行せらる。
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(二)朱雀天皇は常に仏法を信じ給いしが観世音菩薩の大慈大悲とは衆生において、天也地也父也母也と云事を深く感応ましまして朝廷に於かせられても仏会を始め給う、時に此黄金如意輪観世音菩薩を深く御信仰ましまして御念持仏となされしが後当社に御下付ありしものなり。
吉祥天女院に安置して今に存す。
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(三)第六十六代一条天皇正暦四年太宰府へ勅使を差し立て正一位太政大臣を贈り賜いし年より年々朝庭より祭祀料を当社へ下し給えりという。
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(四)第七十代後冷泉天皇の御宇、治暦二年三月十八日天満宮御神殿を新しく改造して正遷宮祭の節 帝は天満宮御神号を御宸翰ありて奉納し給えり。
扶桑略記及百錬抄 干中
『吉祥院聖廟(在二吉祥院森内一吉祥天女堂西)。
治暦二年三月十八日吉祥院新造二天神堂一奉レ移二尊廟一』
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(五)第七十四代鳥羽天皇は天仁二年夢の御告げに依りて同二月二十五日より四日間吉祥院天満宮に於て菅公第二百年の祭典を特別盛大に行わせ給い其の後毎年二月二十五日の御忌日には必ず当社に於て御八講料を御下賜ありて之れを修することに御定め給いき。
されば以後毎年菅家のともがらまいりて是を是[1]い藤原敦基、大江以言の如きの文人も集りて詩文を作りてまいらせける。
以後歴代の帝も御尊崇あつかりし御社なり。
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(一)年中行事秘抄近代及菅家文叢 干中
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『二月(月令仲春日在二大圭斗一建卯之辰也律中夾鐘)廿五日北野御忌日事自二天仁二年一依二夢告一於二吉祥院一修レ之諸儒参入』
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(二)公事根源 干中
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『北野御忌日、廿五日、二月の廿五日は天満大自在天神のかみあがり給いし御日なり夢のつげありて天仁二年より吉祥院にて八講あり菅家のともがら参て是を行う』
『吉祥院御八講 自二天仁一始行』
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(三)国花万葉記 干中
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『二月廿五日北野天神御忌日 此日吉祥院ニテ八講アリ』
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(四)山州名跡志巻之十一 干中
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『旧記日 鳥羽院御宇天仁二年二月二十五日依二菅相公告一始行二北野忌日一於二吉祥院一行二八講一云々』
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(六)第八十七代四条天皇は文暦二年吉祥院天満宮御八講料として加賀国笠間卿[2]の柴山ノ庄、富墓ノ庄の二庄を賜うこととなる。
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(一)吉祥院天満宮古記録 干中
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『加賀国号二富墓柴山之庄一者往古無二年貢一興廃地也雖レ然仁者楽山依レ有二因縁一宣旨申請神領(○虫食)施入永法華八講料所云々
四条院帝の御宇文暦二年二月廿三日大学頭前長門守奉』
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(二)吉祥院天満宮御八講とは菅家、公卿、神官、及各宗の僧侶等拝殿に列座し勅使の参向を待ちて祭典を行い法華経八軸講じて論議を為し又詩や歌を作りて奉り或は児論議とて七八才乃至十二三才ばかりの児に論議をなさしむ其の他とりとりの式あり。
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(三)日次紀事臨時部 干中
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『吉祥院天満宮八講につきて、
御年忌有二御八講等一禁裹[3]亦間被レ行レ之四箇大寺僧徒参集取レ䰗八日交被レ勤導師第五日講二法華経第五巻一五巻与二五願一倭音相同故此日称二五願日一此日勤二導師一為二規模一故延暦寺専勤レ之凡法会中有二朝坐夕座之儀一及大行道十種供養行香等式公卿著坐伶人舞楽等之事或領掛行香袋被物公卿被レ勤之レ[4]法会間宮門跡被レ勤導師則出仕時執綱執蓋、
殿上人被勤之凡法事或有二法華八講一或有二法華懺法一或有二観音懺法一五位職事監レ之是謂二御法奉行一一会式終後多有下被行赦事上五判事勤仕之』
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(七)為記 干中
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『第百〇三代後土御門天皇の御宇延徳元年十一月十九日、
吉祥院相撲会、
長者父子同予参向、
廿日吉祥院御八講、
導師花園被レ参』
これ菅公の御先祖は相撲の祖神なれば御神慮に適うべく当地方の若者は農業其他余暇あれば各字毎に角力の練習場を設けこれに集り心身を鍛錬し御祭典又は御八講ある際にはこれを催し、遠きより来り会する者少な[5]らず実に盛大なりき、
されば有名な力士も当地方より多く出たり、
明治[6]新後御八講止みしより漸時衰え今日にては見る陰もなし、
明治以前に名を得し天神川、桂川、天神の森、勇山等ありしが其中東条町の桧垣与左衛門氏の如きは、天神の森とて当時右に出る者無かりしとなん、
明治三十五年菅公一千年祭の際にも相撲の奉納ありしが遠方より集りし力士も多々ありき、御年中忌万灯会と共に一つの神事なりき。
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(八)拾芥記及為記 干中
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『延徳元年一長者拝堂事十一月十五日巳巳菅宰相長直卿氏長者拝堂也乃至参二吉祥院一先付二客坊一長者入二上戸一両侍従入二東戸一其儀式見二次第一云々
同日参二向北野社一云々』
[1] | 誤記のように思われますが、原文のまま表記します。 |
[2] | 「郷」の誤記と思われますが、原文通り表記します。 |
[3] | 「裏」の誤記ですが、原文通り「裹」と表記します。よく似ていますが別の意味の漢字です。 |
[4] | 「レ」点は不要で、後ろに登場する「被勤」の間に「レ」点が抜けている気がします。 |
[5] | 「か」が抜けているか、「な」が「か」の誤記のいずれかでしょう。 |
[6] | 「維」が抜けているように思いますが、原文通り表記します。 |
更新日:2021/01/30