吉祥院天満宮詳細録 第十章 | p302 - 308 |
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(二)現時吉祥院天満宮の年中行事につきて。
一、一月一日(歳旦祭) 未明より天満宮及び吉祥天女の内陣献灯、灯籠八灯は大正十二年より電灯とす、内二灯は桧垣与三郎氏の献灯。
大提灯一、電灯大正十四年八月より山中忠次郎氏の献灯。
同一、電灯昭和二年十二月末より安川勝三氏の献灯 外灯一、昭和三年八月より山下音次郎氏の献灯、(電灯は皆年中なり) 夕時には本殿末社全部献灯 両天末社の七五三飾、装飾神饌等は前日より準備、
両天(吉祥院天満宮と吉祥天女院のこと)へ御洗米、御酒、御鏡餅(裏白、ゆずり葉を敷き上にはかし昆布橙、蜜柑を添う)御魚御菓子、かや、かち栗、蜜柑等を献備して歳旦祭を執行す他に数軒より御鏡餅及神饌を献備、その氏名は安川勝蔵氏、桜井伝平氏、長谷川巳之助氏、山下音次郎氏、桧垣与三郎氏、平塚金次郎氏、安田英之助氏、北村豊次郎氏、石原貞次郎氏、山中忠次郎氏、藤田庄次郎氏、神田捨吉氏、深見鹿次郎氏[1](今は深見はな)氏、高橋源兵衛(今は高橋勇次郎)氏、平塚繁次郎氏、福田丑之助氏等なり。
村民年初の参拝をなす。
一、同二日、両天内陣早旦献灯 夕時全部献灯午後撤饌、御守札配布、
一、同三日、元始祭 神饌は御米、御酒、御鏡餅、御魚、寒天、昆布、大根、人参、慈姑、蜜柑、御菓子、塩水等
一、同四日、伊勢参宮
一、同十四日、 (南条町より神饌献備)
吉祥院小字南条町より神饌献備の状は白米五合を当社にて普通の如く飯に煮て、ぎぼし形に二個重ねて土器に盛りて一対として天満宮に奉る、かくせるを夕刻該町の者戴きに来れば之れを撤して渡す、これを持ち帰りて各戸に配分す。
其節には四足とも異なる草履を納むる古例なりしが大正八年より白米二升と変更せり、此神事は菅公の祖父清公卿時代より菅家へ種々の工芸品を献上せしものなりしが菅霊を祀られしより此事も初り実に古き神事なり。
夕刻爆竹祭の準備を為し置く
母公伴氏の逝き給ひし御忌日なり。
一、同十五日、爆竹祭(とんど祭)
神前の広場にて旧き七五三縄、旧き神札等を青竹等と混じて炎上せしめ竹の爆音と共に邪神を祓うと共に吉運祈願の祭なれば未明より村民参拝して社頭にて寿ぐ例なり。
又書初して神棚に奉りしものを炎上せしめて学問上達の占いも行う。
当村小字毎にもその中央広場にても右の行事をなす。
一、同二十五日、初月次祭。
氏子凡そ百八十軒より神饌献備、西条町。政所町合同して神饌献備
御当日は菅公左遷の宣命を受けさせ給いしいと御悲しき御日柄なれば如何にもして御神慮を慰め奉らんとの赤き直き真心より二ヶ町相謀り神饌を奉るものにして其の状は前日より頭屋に各家主集り身を浄めて調製し当日早旦奉献するものなるが、御土器に白蒸を稍高き円錐形に盛りこれに御花とて巾三分長さ三寸位の五色の色紙にて製せしもの七八本宛挿し立て金箔をかけたるもの及御酒、御菓子、大根、人参、牛蒡、くわい、三色寒天等を取揃え、両天末社、清公卿伝教大師是善卿等へ献り午後三時頃撤饌し各家に配分する例なり、起原詳かならず。
○吉祥院天満宮古文書 干中
『永代覚之事
一、吉祥院村政所町内中天神講始寛延二巳年正月廿五日初始講当番願主山口清左衛門勤候天女様、天神様、御両社ヘ毎年御初穂白米二升つつ上者也。
石原市正、石原市郎右衛門、宇兵衛、清三郎、喜助、伝七、文左衛門、四郎左衛門、次郎左衛門、又四郎、伝七[2]、半四郎、
総合拾三人
右之通毎年壱人廻り也』
石原長太郎氏の話しに依れば右の天神講一時中絶せしが以来政所町内に不吉事打続きて大いに憂うる際西条町の町役某氏が曰く天神講を中止せし天罰ならん当町と合併しては如何とこれを聞きたる該町の者さもあらんと打驚き早速加入して以来不吉事絶たりという。
一、二月初旬、白大豆のいりしものを神前に奉りて節分祭を行う。
夕刻より村民の参拝者多し
一、同十一日、紀元節祭
一、同初午祭、稲荷社へ神饌献供 神殿幕張飾 御土器に赤小豆飯五ツ、御酒壱対、御魚五ツ、あげ豆腐三枚を二分して五ツ、水菜の白らあえを添えて奉る、
一、同二十五日、月次祭、早朝両天内陣献灯夕刻は全部献灯 両天へ御米、御酒、御魚、御菓子を献備、氏子中より凡三十数軒の神饌献供あり、
当日は菅公の御忌月なれども大[3]陽暦となりしより一月送りとして三月廿五日に変更す。と
一、同三月[4]、毎月一日十三日十五日二十五日には早朝両天内陣献灯
一、三月二十五日、祈年祭(奉幣使参拝)、凡二百八十軒の神饌献供、例年の通東条町より神饌献備及御神楽御湯奉納、私祭(だんご祭)此日は一月送りの御忌月日に当るを以て御神慮を慰め奉らんとして当村東条町の者頭屋に集り身を浄め心を尽して前日より夜にかけて準備せし神饌を早旦持ち来り両天末社へ奉る例にして其状は四足円形(直径一尺高さ一尺二寸余)の台上に白蒸を饅頭形に盛り之に紅白の造り梅花の枝と蜻蛉形花とを取交え十数本挿し立て天満宮と吉祥天女とに奉り、末社と清公卿伝教大師並是善卿とには西条町天神講の如く土器に盛り三四本の同造梅花を挿すものなり。
其他鯛、御酒、饅頭、煎餅、(両天へ)寒天、昆布、慈姑、白豆腐、及大根、人参、牛蒡を一束とせるものを取揃えて奉り其外京都市油小路三哲道祖神社米山社中へ依頼して巫子をして御神楽御湯を奉納す。
就ては次湯奉納者なければ多年当家より奉納す。
此例皆古くして起原詳かならず。
天仁二年か。
=京都叢書の日以[5]紀事 干中
(延徳丙辰[6]孟冬某日林叟序)及(貞享)二年乙丑五、鶴山野節序)
『一月二十五日(神事) △天満宮詣
男女有二宿願一則廻二本社一百度毎拝二神前一是謂二御百度一近世老姿或児女取二米銭一代二願主人一而勤之是亦代参謂也』
○同前 干中
『二月十五日(神事) △菅神正当忌日(禁中)聖廟法楽有和歌御会六月亦然今夜西京預二御供田一之家献二大小御供一於二北野社一宮司老少相向並之自二幣殿一至二神前階下一毎レ手伝レ之宮司一考与巫女文子各直取レ之供前是謂手供又称二転供一或号二菜種御供一供物上挿二黄菜花一故云レ爾或依レ歳菜花未レ開則挿二梅花一
△吉祥院天神神供
供物吉祥院村東庄、西庄、交修レ之』凡四百三十年前
○同前 干中
『三月二十八日(忌日)△菅原為長忌 自二菅神一十代之孫到二此人一再二興菅家一為二土御門、明[7]徳、後堀川、二[8]条、後嵯峨五代之侍読一也』
[1] | ( )の後ろの「氏」と重複していますが、原文通りです。 |
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[2] | 2回登場していますが、原文通りです。 |
[3] | 「太」の誤記と思いますが、原文通り表記します。 |
[4] | 「同三月」の「同」が変ですし、続く「毎月」との関係も変ですが、原文通り表記します。 |
[5] | 「次」の誤記と思いますが、原文通り表記します。 |
[6] | 延徳年中(1489-1492)に丙辰の年はありません。似た年号の延宝4年(1676)が丙辰なので、こちらの誤記の可能性が考えられます。 |
[7] | 「順」の誤記ですが、原文通り表記します。 |
[8] | 「四」の誤記ですが、原文通り表記します。 |
更新日:2021/02/08