吉祥院天滿宮詳細錄 第十二章 p450 - 457
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(七)山城志第六卷 干中
『佛刹篇吉祥院吉祥院村堂西有廟』
(八)三善院緣起卷物一卷 天承元年五月十八日書寫之竟(現在北條町山下音吉氏 密藏)
右軸物如何に乞ふとも見するを許さゞりしが幸ひ昭和三年四月二十五日午後漸く一讀することを得しを幸とし取りぎ視寫せしものなれば字脫字あらんも予の罪なり 再度照合度も今家に無しとて容易に見る機會を得ざれば其儘を記載し失の恐れを防がんとす 又吉祥院天滿宮として參考とすべき事項あればなり。
『蓋し其監〓[1]れば
夫當院者三善淸行建立の靈地淨藏貴開基の塲也、 昔淸、傳敎、此地を開基して常精舍を建立し菅亟相に到りて寺院榮昌たり、 左し給ひて後外護なれば敎化陵夷し伽藍頽敗す、 時に淸行吉祥天女觀音薩捶[2]を信じ常に此地に詣でさせ給ひき 延喜九年原時菅靈の託をうけ薨じける時靑色の二龍左右の耳より現じ淨藏貴、淸行に向ひ我は是菅亟相の變化身天滿大自在天神と示しければ感激甚しく御座りけり、 此間菅亟相は眞人なり、 壽菩薩の應變天帝の化身なりとぞ、驚給ひそれより荒人神と成らせ給ふことを信じ給ひ 又昔詠し給へる歌に

「こゝろたに誠のにかなひなば
いのらずとても神や守らん」

とおふせられけるを今更も貴くぞおぼしければ表たる。
吉祥院は天神の故里なれば伽藍の外護とならせ折につけは詣給ひ又菅の作り給へる觀音は以天神の本なりと崇なり。 淨藏貴と共に啇量し福田の地に七寳を喜延喜九年に當寺を堂の前といひしに建立し以其觀音の容を安置し奉り淸行山三善院淨藏寺とぞ名給ひけり。
厥後淸行の御子日藏上人大政威德天の淨土に到り又延喜帝の地獄に御座けるを見奉本土に歸りし頃より、吉祥院の御靈とて天滿宮を天女の地に勸ありければ其より後は當寺十一面觀音の像を天神の本と仰せ給ひけり。 堂の前と名る處は昔例年法花會を執行ける法花講堂の邊りなり、 六年九月菅亟相の門徒吉祥院にて五十の賀を修し給ふ時草鞋のに冷と願文とをさゝげ堂の前に立けるを延僧都捧て讀給ひ「此是天子之爲願」といひし處なり、 然を中古此地に移し舊跡を字して堂の前となづけ田宅となり傳りき。

觀音緣起

夫弘誓の海深くして群生濟度の彼岸にいたらずといふ事なく慈眼の憐厚して施無畏者の力厄難をのぞかずといふことなし。
當寺十一面觀世音菩薩者人王五十七代陽成天皇の御宇菅亟相御年三十七の時宿願まし/\て自から作り給へる容なり、菅家文草十一卷 吉祥院法花會願文に委くこの事を現はせり。
竊に菅亟相の本地を奉れば十一面觀世音菩薩、垂迹をぬれば天滿大自在天神應化の身にして威靈本邦にいちじるしく令名異域にほどこせり。 むかし朝庭に股肱として萬機を輔佐し今は天下に敬信せられて百世に庿し給ふ、儒雅の才古今に秀で賢哲の德都鄙にあきらけし御世にまし/\ける履歷をかんかふるに姓は菅原諱は眞字は三とぞ申奉る。
爰に吉祥天女院者傳敎大師開基の靈地菅淸卿建立の精舍なり。 七堂伽藍玉を㻲ては金容の妙色を餝り三十六[3]を並ては淸淨のみこへ𧦧る事なし天女經に謂吉祥寳莊嚴世界とは豈此を去る事からんや。
然に是善卿幽老まで御子おはしまさず氏胤なき事を愁ひて天女に祈誓まし/\ければ仁明天皇承和十二年乙丑の頃菅是善卿の南庭に示現し給ひ相とし氏を母として侍養し給ひけるとかや。
里人その示現まし/\ける處を字して七男畠と號しけりこれなん是善卿の南庭の舊迹といひ傳へ侍りける厥實いまだ知りがたし。 菅幼き御時より祖の家業をうけて專儒の敎を學び給ふに本性さとしくして一を聞きて十を知の才おはしましける。

「文草云汝幼雅之齡御病危圖余心不撓哀愁之云々」

御年三つに成せ給ふ時重病を得給ひいと危ふ見へさせければ母の歎傷あさからざりきされば母公伴氏愁傷の餘り步を吉祥天女にひ一七日祈誓まし/\又觀音菩薩捶[2]の威神力を仰ぎ深く願をおこしてのたまはく、 願は大悲哀愍をたれ兒の病ふ、 癒せさせ給ひたまい新に十一面觀音の像を立し奉らんとなん、 これによりて感應むなしからず不日に泗痾いゆることを得給ひければ母の歡喜いと深かりけりそれより後作文詠歌衆藝世に比ひなく聞侍りき。
貞觀十四年正月十四日御母氏かへれさせ給ふ 此時菅亟相御とし二十八なり 御母旣にかへり給ふ時菅に向ひ徃時の願とげざる事を大息し宿願の趣くわしく吿給ひければ慚愧なゝめならずおはしましけり、 それより命をつゝしみ朝務のいとま三四年來齊戒淸淨にし自ら彫刻し給ひき漸く成しまし/\ければ元慶三年夏の頃是善卿にまみへ像建立の趣語り給ひき。
曰善哉汝作是言余建一禪院當講二部經最妙典依余發願先年講畢法花大乘寄汝報恩當共隨喜云々 見干文草
明年八月晦日御薨じ給ふ時立の誡又切なりきとなん。 母の命淺からざりければ善を盡し美をいたし修いと止なく成就まし/\ぬれば陽成天皇元慶五年十月(從廿一日至廿四日)吉祥院法花會の砌禪衆を禮拜し法筵を開披し新成觀音の像を供養して宿願を解けさせ給ひき。
厥願文云仰者新成觀音像說者舊寫法花經始謂就冥報以共利存今願假善功而同考妣云々 文草 即吉祥院に奉まし/\き。

「當寺十一面觀音の像これなり」

偉矣觀音即菅亟相と變化まし/\て立し給へり、 成驗の容なれば當社天滿大自在天神の本地より崇し奉る也。 古謂五神の補陀三十一應之一他方此界何不臻されば觀自在は娑婆は緣の大士渴也㧞濟の師なり、 普門示現の春の花は匂を三十三身の袂に施し入重玄門の秋の月は光を十九說法の露に瑩し給ふ眼を開ひて容を拜し奉れば面輪端正の相好魏々として歡喜の淚裳を潤し心を〓[4]めて本を念し奉れば慈悲覆護の領袖都々として感歎の思ひ肝に染めり是故に步を當堂にぶの人は三七難を身の上にはらい誠を此に致すの輩は二求兩願を心の中に語しぬ殊には疱瘡の病をやすからしめ產の難を守給ふ。 傳聞昔し當村に一老婆あり常に此觀音を念しき有時隣家に火災あり依倍なければ一心に此觀音を念し火災のがるゝ事を得又文永年中に東寺の邊某しの娘疱瘡を得、いと苦ければ母一心に此觀音を念じある事を得又建武年中に當村某しの女難產に苦けり偏この觀音を念し一心に稱名しければ漸時に產しけるとなん。 又元和年中大阪落城の時敗軍の徒草中に隱れ居けるを當村の某し人に語り知せければ武者一箭をはなち射殺さんとしけるに矢それて當らざりき此人常に此觀音を念しける故なり、それより信しけりとなん、今古靈驗新なること稱計へからず。 善男善女渴仰の首をかたむけ信心の水すみなば諸願立處に滿足せずといふ事なからんのみ即時觀其音聲皆得解脫の利生誠に仰くべし信ずべし。
[1]〓の漢字は[酉昜]です。
[2]「埵」の誤記だと思いますが、原文通り表記します。
[3]」の誤記だと思いますが、原文通り表記します。
[4]〓は手偏[扌]の右上に[甘]その下に[岡]を書いたような漢字です。

更新日:2021/02/20