吉祥院天満宮詳細録 第十二章 |
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(一三)天正年間豊臣秀吉当吉祥院天満宮の社地及神領並御朱印等全部取上北野神社へ移せし事につきて。
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○北野誌首巻天、北野由来 干中
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『一山城国中御朱印神社之事、一北野中略社十四箇所内末社十三個所旅所之社一個所仏閣二十箇所内社十ケ所社僧寺四ヶ寺境内六ケ寺、同社修理料百三十石兼而家極置候由に付弥以修理料に可極置旨渡申渡之京都御役所向大概覚書』云々
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『社地及神領 一、加賀国西笠間保 一、同国福田庄領家 一、同国富墓庄 一、同国山代本郷 一、同国豊田長崎保 云々』
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『就中豊太閤は崇敬殊に厚くして、天正九年に特に本社の近傍なる西京にて百四石四斗六升大薮にて百石、上賀茂にて百八十九石二斗、雲林院上野にて九十六石、西院村にて七十三石九斗二升、内村にて三十七石六斗三升総て六百二石を社納せられ、又慶長三年に上野村以下の諸村より都合五百石を扶助として納められたれば上述の諸国の諸庄等と合せて六万六千石の神領ありきという。
述の諸国諸庄の領地は、戦国擾乱の際には、多く失われたれども、彼の天正に豊太閤の納められし六百石余の地は、徳川時代にも継承せられて、将軍の代毎に必ず朱印を与えられしなり、この他元和元年に徳川家康公より西院村の内にて二石三斗余を八月十五夜の神供として納められしが代々相承けて明治維新に及べり(以上古文書の二三は下条記録雑載に収めたり)』
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(一四)洛陽天満宮廿五社廻 干中
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御輿岡天満宮 下立売通御前通西入三町目北がわ北野神社御旅所
吉祥院天満宮 千本通四つ塚二町下る西入吉祥院村
行衛天満宮 七条通千本西入四町目北がわ
綱敷天満宮 同三町目北がわ
書聖天満宮 油小路通木津屋橋下る不動堂町西かは道祖神社内
天道天満宮 仏光寺通猪隈かど天道社内
菅大臣天満宮 西洞院通仏光寺下る
北菅大臣宮 右北門そと北がわ
当社は紅梅殿の旧跡にして菅神の御父是善卿を祭る
筑紫天満宮 松原西洞院かど五条天神社内
天満宮 松原諏訪町かど新玉津島社内
文子天満宮 間之町通万年寺下る西がわ
飛梅天満宮 馬町通本町東入四町目下る東がわ大仏新日吉神社内
阿波天満宮 五条通大橋東五町目北がわ若宮八幡宮境内
安井天満宮 広道松原上る三町目西がわ安井金刀比羅社内
天満宮 大和大路四条下四町目恵美須社内
火除天満宮 寺町通四条下る東がわ
錦天満宮 錦小路寺町東入る
下御霊天満宮 寺町丸太町下る下御霊社内
吉田山天満宮 吉田神社境内竹中稲荷社そば
菅原院天満宮 烏丸通下立売下る西がわ
霊光殿天満宮 新町通今出川下る西がわ
御霊天満宮 寺町鞍馬口西南上衛宮内
水火天満宮 堀川寺之内上る三町目
北野文子天満宮 北野社境内南手水鉢の北で
北野一之保天満宮 右西の方
旧西京安楽寺ほととぎす天神
北野天満宮 官幣中社
以上 但し拝順は信者の随意
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右薨去より今明治廿六年迄九百九十一年也。
明治廿六年癸巳年丑の日
一月四日十六日廿八日
二月九日廿一日
三月五日十七日廿九日
四月十日廿二日
五月四日十六日廿八日
六月九日廿一日
七月三日十五日廿七日
八月八日廿日
九月一日十三日廿五日
十月七日十九日卅一日
十一月十二日廿四日
十二月六日十八日卅日
発起人 川井清胤 有志者 山田太三郎、中村延清、土方由三郎、菱田富太郎
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(一五)北野誌首巻付録全国天満宮由緒
京都府之部 干中
『京都府山城国紀伊郡吉祥院字宮ノ前 村社 吉祥院天満宮
一、祭神 菅大臣神霊
一、由緒 当社天満宮は往古桓武天皇御宇大和国奈良の都より今の山城の都に移し給う御時菅公御父[1]正三位左京大夫菅原清公卿供奉し給い則ち此地に御館の地を賜いてより菅公御父是善卿御同様御館の地にて則ち菅大臣御降誕の御地紛れなき御霊地なり
尤も境内に御鏡の井戸有之衆庶世に知る処にして菅公御在世には御参朝の砌此の井戸へ御尊顔を写し給うよし牌名石井戸の傍に有之
其後菅公筑紫へ御左遷の後朱雀天皇深く御敬信被為在依之承平四年当社地に初て菅大臣の尊容を御自御宸刻被為在右之神霊を御勧請にて菅大臣最初の鎮座なり。
明治六年六月村社に公定せらる。』
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(一六)吉祥院鐘改鋳に関し、古文書 干中
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『吉祥院鐘銘 科限非器 遠覃是仁 和心播響 応乎成因 他利弘誓 我帰至真 魔降伏刀 剣解摧輪
右 天満宮所譔既歴八百余年釁郤失響於是別当職菅原定富改鋳之請為範録旧銘不客固辞薫沐拝書云
従二位行式部大輔菅原朝臣為範
寛保三年閏四月三日』
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(一七)吉祥院天満宮境内及除地払下げに付きて
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『除地御取調ニ付上申書
紀伊郡第一区吉祥院村 天満宮社
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一、古来より除地元坪数二千八百七十五坪五歩九厘
内 六百九十八坪一歩六厘 現境内
残り坪数二千百七十七坪四歩三厘 明治四未年 上地 内五百二十七坪七歩八厘田。千百二坪二歩四厘薮。五百四十七坪四歩一厘林。云々
右之通に御座候
当社除地之義者高外に而古来より村方に於も関係不仕候事故水帳にも無之候
右に付確書之義者正徳年中の頃自宅火災に付其節確証古き書類等に至迄焼失仕候由伝承候乍併除地之義者判然として紛れ無き事に御座候
尤も先年末年上地御払下げに相成候後高外に付別段に貢税上納仕候間村高には含み不申候
仍而此段申上候 以上
外に制札之写差上候
尤幕府御代々京都諸司代御交代之節々御書改に相成候に付御制札之写相添奉差上候
吉祥院村 天満宮社祠掌 石原市之進印
同区同村 戸長 某 印
明治九年 月 日
京都府御役所殿』
(注)自宅に非ず吉祥院天満宮文倉庫焼失の誤りなり
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(一八)菅原是善卿尊像につきて
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『山城国吉祥院木像 伝云菅公臨容在則
時代品展覧会出品目録第二 明治二十八年七月七日発行
京都市上京区新烏丸夷川下ル十一番戸 大浄敬之〓[2]
藤原時代 一衣冠木像 一体 京都府紀伊郡 吉祥院天満宮蔵
社寺伝に孔子の像と云う
然れども衣冠の制純然たる我朝藤原時代のものにして漢土の制に非ず
高さ四尺伝説の誤なるは論を俟たず。
一説に吉祥院は菅原氏に縁故あるの仏刹なれば、菅公の父是善公、若くは菅公に非ざる歟と云えり
此説或は信に近からんか
惜哉記伝散逸して明記するに由なし
尚考古博識者の高説を俟つ
年代凡八百年』
(注)本像の則に孔子像あれば聞き誤りて語りしものならん。
本像は是善卿にして菅公の作なり。
されば祖父清公卿と同様に奉祀す。
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(一九)天神川につきて
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古は紙屋川と称し源は千束村の北鷹峰より発し今も紙屋川(神谷川)とて北野神社の西傍を流れ(又可井川とも粥川とも謂う)て吉祥院村領に入るや天神川と称し当社の東傍を南流し下鳥羽村の南部より桂川に合し淀川に入る
菅公御左遷の節御乗船ありしも此下流なり
又菅公御左遷以前は之れに架せる橋を朝夕御渡り在りしを以て後に御神橋とも天神橋とも謂い川名を天神川と尊称して今日に至る。
昔日は此辺魚所にて禁漁地帯なりき。
吉祥院天満宮詳細録 終
[1] | 清公は道真の祖父なのですが、原文通り「御父」と表記します。 |
[2] | 〓の漢字は[句帝]です。 |
更新日:2021/02/21