吉祥院天満宮詳細録 第十二章 p466 - 474
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(一〇)京都叢書
近畿歴覧記 黒川道祐著(名玄逸、静菴ト号ス)
  元禄二年十一月四日没 干中
『同東寺往還の一部に
前略梅が小路は代々土御門安倍氏之領地なり。 此の南に唐橋と云える村あり。 今に菅家唐橋の領地なり。 此の村を唐橋と称すること、予案ずるに、東寺は古の鴻臚館なり。 蕃客入朝の時、この紙谷川の橋を渡れり、故に唐橋と云えるなるべし。 其後豊臣秀吉公三韓退治の時、肥前名古屋まで御出馬の刻、右の道筋を御替へ今の唐橋を掛させ、御自身御渡り初めあり。 しとなり。 唐橋村の南なること一町許東の方の田間に金堂並に塔の跡とて芝原あり是れ古の西寺の跡なり。其の外堂の後、堂の前えなどと云える田地の字あり。 是れ皆な西寺の内とみゆ、田間の溝にわたせる橋石皆な礎磐等の形なり。 古えの伽藍の石ずえとみゆ、この東に葬場あり。 其所に守敏塚あり。 或は言う大和檉生ムロフ山にも墓ありしと也。 守敏空海とて当時一双の有徳なり。 今以てみれば其の盛衰天地懸隔せり。
禍福は天之所命にして人力之非及可知、元享[1]釈書に守敏の伝なき事不審也。
是より吉祥院村に至る、高二千石の所なり、伝聞古人初て菅原の姓を贈[2]い、清公に伝り遣唐使を勤む。 帰朝の時海上にて逆風俄に発り舟已に覆んとす、干[3]時在唐留学の伝教大師も亦在舟中清友の勧により舟中にて吉祥天女に祈り玉えば即時に風止舟無恙、清友帰朝し是の所六町四方を乞い講[4]け吉祥天女を勧講[4]あり。 菅家代々の氏神とせり。 清友の子是善子なし、天女に祈り玉て天神を拾得なり。 七歳の時病大に発り天女に祈り玉う。 此の度の疾病平復せば手ら天女を刻ましめ、法華経、無量義経、普賢経、般若経を紺地に金泥にて書写せしめんもの誓願なり。 果して病痊、是善則ち天神へ書写可成否とあり。 即刻領掌し玉う。 其の作せる天女の像干今あり。 四部の経は一且宝蔵炎上の時焼失す。 然るに其の灰の内に金字多くは残れり、箱の内に其の灰を納め置けり。 是善公の宅地此の森西南の隅にあり。 今は七難田と云える田地の字となれり。 七難の事不其謂天神十八歳にして今の洛中菅大神の宅地を拝領あり。 此地は旧と紀僧正の宅也。 天神左遷の時この宅地は公の地となれり。 此の七難田の宅に簾中田口氏を移さる。 左遷筑紫の前夜名残りおしみに此の所に一宿あり、自像を写し玉う。 世に伝る一夜白髪の像是也。 翌朝出玉い上鳥羽の東、古川の渡と云える所より船に乗り玉う。 此の所は古より西国へ流さるる人の舟に乗れる所とみえて平家物語にも見たり。 天神此の所にて、君が栖む宿の木末をゆくゆくもかくるるまでにかえりみしかな、と詠し玉う。 其の所を見かえりの森と云う。 天神五十の賀此の吉祥院にて行わる。 凡そ此の村に天神被官の士七十三家あり朱雀帝の時笙の岩屋の日蔵上人頓死す。 忽ち蘇生し冥途の事を奏せしより始て此の処に天神を勧請あり。 日本最初の天神宮是なり。 右七十三家の内薮田、石原、恩田、交々社務職を勤む。 其の次社家ナミ十家安田福田、神田等是也。 其の余も神職を勤む。 吉祥院村二千石忝[5]く神領たり。 其の内七反田御供田なり。 秀吉公の時社務勘気を蒙り、神領不残被没収故に七十三家も多くは武家へ奉公せり。 菅原氏自天神六代目定義に子三人あり。 嫡子は菅家、二男唐橋、三男石原此の二十四代の末河内の今の社務なり。 東の馬場、昔は正月七日禁裏の女中交々参詣、車二両行通ほどの街ときこゆ。 今は社頭零落、雨漏地湿不感歎此の森の東の田間に牛巡と云大なる樹あり。 毎年五月五日吉祥院村飼牛人粧菖蒲於牛額上是を菖蒲角と云。 其の牛を牽き此の樹を巡こと三匝然して後各々携へ来る角黍食之如此するときは年中牛に無病と云えり。 是より四塚みゆ云々
(一一)雍州府志 九、古跡門下 干中
『唐橋、在東寺西梅小路南山崎路古蕃客来朝時自河陽斯橋鴻臚館故称唐橋河陽今山崎乎 在河西而向東南依称之者也 鴻臚館之所有則今東寺地也 古漢唐代多通日本之倭俗称中華漢或称唐於今多是称唐而巳相伝豊臣秀宮[6]公為三韓肥前名護屋時出京師斯橋山崎道是称唐橋是謬伝秀吉公時山崎道並此橋在今道北秀吉公嫌其迂遠道於今処斯橋亦於茲改造之云々 斯辺菅家唐橋家領也 高武蔵守師直此地於唐橋家第宅唐橋謂先祖廟在茲所改葬[7]故不師直大怒遂殺唐橋某此事見旧記按三韓自古通日本故称加羅者非唐家而或用韓字則於義又有相通者也 依処依事択之而可也
(一二)北野誌北野文叢巻八 干中
○『菅家遺誡一巻第(第一巻か巻第一ならんか)
凡仁君之要政者以民為本、民者神明賚也、 本朝之綱、孝者以神明最上、神徳之微妙豈有他哉、 凡本朝者、天照太神之裔国、而天孫瓊々杵之尊臨位之地也、 嘗祀祭之法、無漢土之法斎卜両家之氏人、以之預有司之員、 凡神事之枢機者、以正直之道心之則神照降干此玄至遊干此中臣鎌子神照之表曰、神明如水精神如池水、神明与神徳分一而無分一之理云々、
凡治世之道、以神国之玄妙之、其法密而其用難充之故夏段[8]周三代之正経魯聖之約書平素簪之冠之、服膺而当其堺細塵
凡神器政器者、尋繹於有司之精其法規仮令雖新古之班更無之大鹿島之命為祭主之時者神器及関弊則以榊之連葉平敷膳手之葉葉椀其便 中大兄之皇子者新冠不其頭則以真木之群鬘冠向科於天皇焉彼者神臣是者儲王也 古跡之影照万世之子臣最以神而入玄者也、 凡治天之君者因準於先王之法則太古之淳和[9]而治之者民無妖災夭殤之苦上無水早[10]蝗蛙之幸矧天孫之皇国与尭舜治天之徳其貴有天孫其楽有八十河原之神燎之神楽
凡入租貢税之法者大概法先王之道察蕃国神風之奥合格吏幹之刺史甲乙左右民役専烹鮮省槐之愛治之正之則神明夜守日護護幸給国土高天原之無窮尊趣
凡臨期之朝儀者随古老有職之臣重祖歴代之上材而宣朝家緩懈之公事
凡有楽之会式者有因漢楽印楽然三家五子之調楽本朝之眉目也 然則令神遊干幽玄微妙之城使民帰干淡水澗戸之屋但蕃楽催馬楽朗詠之御遊又是異楽之一調清署露台之逸興也 尤至其奥旨使鬼神之一助也
凡詩賦之興其旨趣興歌楽一般也 加之詩者直五倫十等之列敵国旧讐之癖賦者述長舌短手之便不備麁様之何尤以諸賦之二什其徳用与歌楽至一至二、三事合理之便能也、 当家素生馳走履急鞋之浪縄緩本冠之星則二事兼学之才用、宣規模者也乎焉
凡歌什詠吟之弄者鬼神交遊之梯階夫婦偶和之基也、 鬼神交遊万品生育之、則挙国純一千物繁栄焉、夫婦偶和之、則民生淳質旱水各趣也、 故伴黄門者述鵲霜之情柿三品者賦諸山之𩅧挙一之麗趣也
凡営神社仏閣之旨意雖来格照降之実之有此敬之有此疎眼底情機之所到通徹至妙之要底也
凡主上着御元服乗輿之具、調度殿階之差別雖級階草服穴居之往時則以外物飾粧之具貴非威徳色様之別然者以疎麁不遠之物御便
凡外蕃下裔賓客、来朝干鴻鸕之寓者仮令雖朝家益便之儀王卿等於謁見之興矧亦於階下乎 所謂藤中郷者汗紳帯於鸕館之塵田淋者黙什尾於蕃筵之拙皆以蕃客会語之乏通訳
凡市店朝夕之交買者待有司之処分会以非於他言然輒王卿槐流之徒、為市中之歴遊剰間行微服之遊、酷不器之至也
凡鷹犬者便田猟民望但遥越民望鷹肯非守門養狡犬之利不可思議之至也
凡山海川沢之利為口沢之仮令雖田家細綱戟繋之猟
凡宮中私閨之侍女之数、大概宣家丁之五但有病之婦家者随家禄之多少外妾箒婦之儀、各用之法
凡詳刑之便故者随[11]杖徒流死之五等族類五等之親別更以不混也 以薄賞者賞物、以重罪者罪科之事、古今大略無其過
[1]「亨」の誤記ですが、原文通り表記します。
[2]「賜」の誤記のように思いますが、引用原文(近畿歴覧記)通り表記します。
[3]「于」(ハネあり)の誤記と思われますが、原文通り「干」(ハネなし)と表記します。
[4](請)」の誤記のように思いますが、原文通り表記します。
[5]「悉」の誤記のように思いますが、原文通り表記します。
[6]「吉」の誤記ですが、原文通り表記します。
[7]返り点「」の誤記のように思いますが、原文通り表記します。
[8]「殷」の誤記ですが、原文通り表記します。
[9]対応する返り点「」が見当たりません。
[10]「旱」の誤記と思われますが、原文通り表記します。
[11]「笞」の誤記と思われますが、原文通り表記します。

更新日:2021/02/20