吉祥院の寺院(明治時代)

 明治14〜17年(1881-1884)に作成された『京都府地誌』の紀伊郡村誌には、吉祥院(旧・西中村、吉祥院村、石嶋村)の15か寺が記録されています。

 このうち西中村の三宮寺は西京区御陵谷町へ移転[1]しましたが、他の14か寺は現存しています。

紀伊郡村誌 (出典:『史料京都の歴史13 南区』)現在
寺院説明
西中村 三宮寺さんぐうじ 松尾社ニ隣ル。除地。東西十七間、南北十一間三分、面積百九十二坪余。真言宗、京都教王護国寺末。開基造立不分明。 三宮寺
(西京区御陵谷町)
西福寺 三宮寺ノ西隣。税地。東西九間、南北十一間半、面積百〇四坪。浄土宗、愛宕郡東山禅林寺ニ属ス。下同。康和三年甲申[2]僧緩空開創ス。 西福寺
安楽寺 村ノ西ニ在。税地。東西十六間、南北十七間、面積二百七十二坪。明応二年癸丑僧玄哲開基ス。 安楽寺
吉祥院村 吉祥院 天満宮社ニ接ス。除地。境内面積百十二坪余。四履不詳。浄土宗。伝云、旧時菅家別業内聖堂ノ地ト。孔子ノ像、今堂内ニアリ。本尊吉祥天女ハ菅原清公ノ安スル処、鐘銘ハ道真ノ撰フ処ト。其後火災ニ罹ル。寛保三年、菅原為範再鋳シ其銘文ヲ載ス。現今存スル者此ナリ。[3] 吉祥院天満宮
吉祥天女社
智源寺 本村西北境ニ在。東西四間、南北五間五分、面積二十二坪、税地ニ属ス。下同。浄土宗京都大蔵寺末。開基創立不詳。下同。天正七年己卯再建。中興僧名不詳。 智源寺
香泉寺 村ノ東南ニアリ。境内東西十一間、南北十一間三分、面積百二十四坪。浄土宗、愛宕郡禅林寺所轄。 香泉寺
持宝寺 前同方、東西十二間二分、南北十二間六分、面積百五十四坪。浄土宗京都光林寺末。下同。 持宝寺
三善院 村ノ東北ニ在。東西十六間二分余、南北十七間四分、面積二百八十三坪。延喜九年己巳創建。僧浄蔵開基ト称ス。 三善院
明吉寺 村ノ中央ニアリ。東西九間五分、南北十五間五分、面積百四十七坪。浄土宗。乙訓郡光明寺所轄。下同。創立年月不詳。僧惟春宝暦元年辛未三月、之ヲ中興ス。 明吉寺
西蔵寺 前同所。東西十四間、南北十間余、面積百四十三坪。開基創立不詳。以下同シ。宝暦七年丁丑六月、僧東門中興ス。 西蔵寺
常林寺[4] 本村西北ニ在。境内方境面積百十八坪。 常林院
成就院 村ノ東地ニアリ。東西九間五分、南北十二間、面積百十四坪。 成就院
西教寺 村ノ西南ニアリ。東西七間、南北十間、面積七十坪。真宗本願寺ニ属ス。開基年月詳ナラス。 西教寺
石嶋村 西光寺 境内除地。東西十三間八分、南北十間〇五分、面積百四十五坪。松尾神社ノ傍ニアリ。浄土宗乙訓郡光明寺ニ属ス。創立年月不詳。元禄十年丁丑僧観悟之ヲ中興ス。 西光寺
永徳院 境内税地。村ノ東南ニアリ。東西十三間、南北十間、面積百三十坪。浄土宗知恩院末。正慶二年癸酉刱建。開基僧詳ナラス。慶長九年甲辰僧舜西敗宇ヲ繕葺シ、中興ス。 永徳院

 現在の吉祥天女社に寺院としての法人格は無く、三善院が名目上の住職として管理をされてきましたが、近年、吉祥院天満宮に管理が移されたそうです。 吉祥天女社は大般若経を保有しており、毎年10月に地元の組寺7か寺[5]の住職による大般若経六百巻転読が行われています。 また吉祥天女の御朱印には「海上山吉祥院」の印が押されます。

 大福寺(吉祥院嶋笠井町)の縁起を記した『永徳院文書』によれば、大福寺は明治6年(1873)に廃寺になりました。 そのため、この紀伊郡村誌に大福寺は登場していません。 同様に大日寺(吉祥院稲葉町)も廃寺になっていたと思われます。

 妙玄寺(吉祥院西ノ庄門口町)は昭和になってから開創[6]されました。


[1]『近代京都オーバーレイマップ』❐の地図情報によれば、少なくとも昭和28年(1953)頃までは西福寺の東隣に「三宮寺(吉祥院西ノ庄東屋敷町)」がありました。
[2]康和3年(1101)の干支は辛巳(かのとみ)で、康和6年(1104)の干支が甲申(きのえさる)です。参照した『史料京都の歴史』の誤記かもしれません。
[3]梵鐘は現存しませんが、かつて吉祥天女堂の前に鐘楼と梵鐘があったことは絵葉書の写真で確認できます。
[4]古文書で「院」と「寺」を区別せず使われている例もありますが、ここは「常林院」の誤記だろうと思います。
[5]旧・吉祥院村にある浄土宗西山派系の智源寺・香泉寺・持宝寺・三善院・明吉寺・西蔵寺・成就院の7か寺です。
[6]『近代京都オーバーレイマップ』❐の地図情報によれば、昭和10年(1935)から昭和26年(1951)の間に「妙玄寺」が開創されたようです。 さらに門前に「昭和二十三年十二月一日」の寺号碑がありますので、昭和23年(1948)の開創で間違いないと思います。

更新日:2024/02/09