洛陽四十八願所地蔵 (旧版)京のお地蔵さん 平成6年(1994)

御詠歌:

(旧版)京のお地蔵さん 現在
寛文年間(1661-73)、霊元天皇のおぼしめしにより、僧宝山が洛外の六地蔵以外の地蔵尊中、霊験あらたかな市内の四十八カ寺の地蔵尊をえらび、同天皇御製とつたえる御詠歌を添えたもの。 ( )は現在の名称をあらわす。
第一番 縄目地蔵 壬生寺 中京区壬生 壬生寺/縄目地蔵[1]
広大の御法みのりをのべて六つの輪は ここの仏の宝なりとぞ
第二番 水那上みながみ地蔵 光林寺 中京区綾小路大宮西入 光林寺
水上みなかみに浮かべる影のえにしきけば 西のみ国ぞいとどなつかし
第三番 雀森地蔵
(桶取地蔵)
更雀寺 左京区静市市原町 更雀寺[2]/桶取地蔵
鳥だにもさへずるのりの庭なれば えにし結ばぬ人は果敢なき
第四番 養老地蔵 悟真寺 右京区太秦東蜂岡町 悟真寺[3]
憐れみの深き余りに残しおく 老いを養ふのりの教へを
第五番 万人講地蔵 休務寺 中京区綾小路通[4]大宮西入 休務寺/万人講地蔵
万人に限りやはする御仏みほとけの 誓いの海にはかりなければ
第六番 延命地蔵 休務寺[5] 中京区錦小路通大宮西入 成円寺
のりの身の寿ことぶき延ぶるそれのみか 露の命も保つ誓いぞ
第七番 幸福地蔵 昌福寺 上京区智恵光院通下立売 昌福寺
げにやこの仏の恵みうけぬれば 富もさかえも長き玉の緒
第八番 見返みかえり地蔵 勝巌寺 上京区下立売通千本西入 勝巌院
生ける身のよそほひ示す見返りの 仏の御影みかげたのもしきかな
第九番 妻取地蔵 祐正寺 上京区下立売通七本松東入 祐正寺
仮染かりそめの色のゆかりのちぎりのみ 結ぶばかりと人な思ひそ
第十番 腹帯地蔵 報土寺 上京区仁和寺街道六軒町西入 報土寺
わきて世のただならぬ身をあわれみの 深き余りに結ぶ腹帯
第十一番 跡追地蔵 超円寺 上京区御前通一条下ル 超円寺
ちぎりをば結ぶ堅田の観世音 また立ちならぶ跡追いのかげ
第十二番 昆陽野地蔵
(鍬形地蔵)
地蔵院 上京区[6]一条通西大路東入 地蔵院/鍬形地蔵(昆陽野地蔵)
津の国の昆野こや古寺ふるでらふりすてて 九重ここのえてらすのりのともしび
第十三番 玉体等身地蔵 清和院 上京区七本松通一条上ル 清和院
すべらぎの玉の姿にみ仏の 影ひとしきはまたためしなき
第十四番 浄土引接地蔵 浄福寺 上京区浄福寺通一条上ル 浄福寺
あだし世の願いを満つるそれのみか ついにいざなうみ仏の国
第十五番 六臂地蔵 智恵光院 上京区智恵光院通一条上ル 智恵光院
身一つを六つのちまたにたむけしと 世にたぐひなきみ仏の影
第十六番 釘抜地蔵 石像寺 上京区千本通伍辻上ル 石像寺
世にふともゆるぎもやせじうらみ釘 仏の御手みてに取るぞかしこし
第十七番 天神同体地蔵 上品蓮台寺 北区千本通鞍馬口上ル 上品蓮台寺
千早ちはやぶる神のやしろと思ひしに またうへもなき花の古寺ふるでら
第十八番 逆川地蔵
(歯痛地蔵)
地蔵院 北区千本通鞍馬口上ル 「上品蓮台寺支院 地蔵院[7]」廃寺 /歯形地蔵
仇となる人だに救うしるしには さかさま川と名乗るみ仏
第十九番 木槿地蔵 西林寺 上京区上御霊前通室町西入 西林寺
いにしえ木槿むくげをとめしのりには 西の林の名さへたのもし
第二十番 土止地蔵
(槌留地蔵)
西園寺 上京区寺町通今出川上ル 西園寺/槌留地蔵
横川よかわなる流れをここに土止つちとめて のりの数々うちもおさむる
第二十一番 王城地祭地蔵 仏陀寺 上京区寺町通今出川上ル 仏陀寺
すべらぎの花の都をまもらんと たつる誓いのいともたえなる
第二十二番 水落地蔵 了蓮寺 左京区百万遍内 了蓮寺/水落地蔵[8]
み仏の恵みの早きなぞらへに たかまの水の落つる姿を
第二十三番 鎌倉地蔵 真如堂南地蔵堂 左京区浄土寺真如町 真如堂[9]/鎌倉地蔵[10]
神楽岡鈴のに添う六つの輪や うち振りさます長き眠りを
第二十四番 米野地蔵
(米地蔵)
尊勝院 東山区粟田口三条坊町 尊勝院/米(よね)地蔵[11]
大海おおうみの一つしづくよねめぐみ 黄金こがねの倉と寺をいふなり
第二十五番 衣通姫地蔵 西方寺 左京区東大路通二条下ル 西方寺
いにしえ衣通姫そとおりひめの本の身に かへし光は世々に照りそう
第二十六番 夢見地蔵 三福寺 左京区東大路通二条西入下ル 三福寺
雲の上結びし夢にさわり晴れ 残る御影みかげや三つのさいわい
第二十七番 袖取地蔵 檀王法林寺 左京区三条大橋東畔 檀王法林寺
袖取りてとめてしもがな迷子まよいごの 暗き闇路やみじに迷い入りなば
第二十八番 那落化現地蔵
(生身地蔵)
矢田寺 中京区寺町通三条上ル 矢田寺/代受苦地蔵
いふならく奈落ならくに沈む苦しみも 果てしも知らず代り浮くてふ
第二十九番 西院川原地蔵 誓願寺[12] 中京区新京極六角 「誓願寺塔頭 江岸院」廃寺
法雲寺/子養育地蔵
いとけなきわらべのために父となり 母ともなりて救うみ仏
第三十番 常盤華地蔵 光明寺 中京区新京極裏寺町 光明寺
枯木だに花咲くてふの誓いあれば 摘みにししきみむべ常盤ときわなり
第三十一番 醒井地蔵 妙心寺 中京区新京極裏寺町 妙心寺
長き世の夢の醒ガ井の水むすび 人はたえなる心さとらん
第三十二番 弟児地蔵 常楽寺 中京区新京極裏寺町 常楽寺
咲けば散る髪がたなれど撫子なでしこの 花の弟児おとごを守るみ仏
第三十三番 鯉地蔵 蛸薬師堂(妙心寺) 中京区新京極蛸薬師上ル 永福寺[13]/鯉地蔵
流れなばついに水屑みくづとなるものを ふくみ与へし鯉は名も
第三十四番 腹帯地蔵 西光寺 中京区新京極蛸薬師上ル 西光寺/腹帯地蔵[14]
身二つに分くる誓いの清ければ 結びし岩田いわたおび安く解く
第三十五番 枕反地蔵
(立江地蔵)
善長寺 中京区新京極蛸薬師下ル 善長寺/立江地蔵
六つの輪の杖に導く仮の世や 仮の枕をかえすにも知れ
第三十六番 染殿地蔵 十住心院 中京区新京極四条 染殿院
いにしへもいま後の世も限りなく 救ふ心は深き染殿そめどの
第三十七番 目疾地蔵 仲源寺 東山区四条通大和大路東入 仲源寺
見る目なきあまたの人の嘆きには 代りわずらのりのまなじり
第三十八番 かずら掛地蔵 六波羅蜜寺 東山区松原通東大路西入 六波羅蜜寺
垂乳根たらちねの親のかばねを隠しつつ かずら掛けしはしづのため
第三十九番 夢見地蔵 法観寺 東山区八坂町 法観寺
罪なきに沈む牢屋ひとやのくるしみを 露にさとして人を救けし[15]
第四十番 身代地蔵 正法寺 東山区清閑寺霊山町 正法寺
かけまくもかわる御影みかげ越方こしかたの 罪の報いの逃れなければ
第四十一番 勝軍地蔵 清水寺 東山区清水一丁目 清水寺
名も高き音羽の山の軍神いくさがみ そのいさおしに御代ぞ治まる
第四十二番 玉章地蔵 退耕庵 東山区本町十五丁目 退耕庵
花の色さもあらばあれ玉章たまづさの 絶えぬ光や五菩薩の影
第四十三番 獅子地蔵 専定寺 東山区正面通本町東入 専定寺
東路あづまじの大井の川のみなぎりに 獅子となりてぞ人渡すなり
第四十四番 乳房地蔵 福田寺 下京区六条通河原町西入 福田寺
嬰児みどりごをわきて恵みのいちじるき 乳房の求め叶わぬはなし
第四十五番 駒止地蔵 蓮光寺 下京区富小路通六条上ル 蓮光寺
駒止めし仏はいつか駒の身と 化しても救ふ誓いありとぞ
第四十六番 手引地蔵
(安産地蔵)
極楽寺 下京区富小路通五条下ル 極楽寺/安産地蔵
世をする土の姿をあらわして 菩薩の恵み限り知られず
第四十七番 来迎地蔵 新善光寺 下京区富小路五条下ル 新善光寺
いとどなお仰げば高し蘇迷盧そめいろの 山の姿と尊ばれぬる
第四十八番 泥付地蔵 本覚寺 下京区富小路五条下ル 本覚寺
四十あまり八つの姿に巡りあひて みのりの海の深きをぞ知る
[1]旧本尊の縄目地蔵は昭和37年(1962)に焼失しましたが、令和2年(2020)に復元されました。 現在の本尊は昭和42年(1967)に唐招提寺から移された延命地蔵菩薩立像です。
[2]昭和26年(1951)頃の「京都市明細図」を見ると、四条大宮西入北側の中京区錦大宮町115に「更雀寺」があり、昭和52年(1977)に現在地(左京区静市市原町)へ移転しました。
[3]昭和26年(1951)頃の「京都市明細図」を見ると、「悟真寺」は四条大宮西入北側の中京区錦大宮町116にあり、昭和26年(1951)に現在地(右京区太秦東蜂岡町)へ移転しました。
[4]「錦小路通」の誤植と思われますが、原文のまま「綾小路通」と表記します。
[5]成円寺門前に「洛陽 三番正観音 六番地蔵尊 成圓寺」の石標があることから、「休務寺」は誤植と考えます。
[6]「北区」の誤植ですが、原文のまま「上京区」と表記します。
[7]宝暦4年(1754)の「名所手引京圖鑑綱目」を見ると、「レンダイジ」の近くに千本通に面して「ジゾウイン」があります。
[8]水落地蔵は上京区上立売通小川西入下ルにあった水落寺の本尊でした。 「京都坊目誌(上京第八學區之部)」P207の水落寺ノ址の項に以下の記述があります。 「水落町西側にあり。西先寺と號す。本尊地藏尊を安置す。享保年中愛宕郡田中村知恩寺の邊に移す。」 (「西先寺」は「西光寺」の誤り)
荒廃していた西光寺が明治32年(1899)に津島市へ移転し再興された際、水落地蔵(立像)も遷されました。
了蓮寺の水落地蔵(座像)は、明治34年(1901)に了蓮寺が現在地(西光寺跡)へ移転した後、22番札所と水落地蔵の名称を継承したもののようです。
[9]天正15年(1587)から元禄6年(1693)の間、真如堂は上京区寺町通今出川下ルにありました。 「京都坊目誌(上京第九學區之部)」P265の真如堂ノ址の項に以下の記述があります。 「天正十五年豊臣氏の命に依り。京極今出川の南に徒りしが。元禄五年十二月朔日。火災に罹り。同六年八月二十二日洛東の舊地に復す。」
[10]「殺生石」と呼ばれる石で造られた鎌倉地蔵は、最初鎌倉に祀られていましたが、信仰の篤かった甲良豊後守宗廣(1574-1646)の夢に現れた地蔵尊のお告げによって、真如堂へ遷されました。
[11]米地蔵は青蓮院内にあった金蔵寺の本尊でしたが、明治4年(1871)に金蔵寺が尊勝院と合併し尊勝院へ遷されました。
[12]西院川原地蔵の場所は誓願寺になっていますが、「利生記」では「江岸院際河原地藏」と記されており、正確には誓願寺塔頭の江岸院のものだったようです。 現在は法雲寺にあって子養育地蔵と呼ばれています。 法雲寺は昭和58年(1983)に四条大宮から現在地へ移転しました。
[13]室町通二条下るにあった永福寺が天正19年(1591)頃に妙心寺(旧・円福寺)と合併して蛸薬師堂になりましたが、最近は妙心寺から独立(?)して永福寺に復しています。
[14]腹帯地蔵は中京区東側町にあった清帯寺の本尊でしたが、明治6年(1873)に清帯寺が廃寺となり西光寺へ遷されました。 「都名所図会(巻之一)」の中に以下の記述があります。 「清帯寺は西光寺の西向ひなり 本尊腹帯地蔵は土仏にして行基の作なり」
西光寺にある現在の小さな腹帯地蔵は、元の大きな泥塑仏の胎内仏といわれています。
[15]法観寺の夢見地蔵の額を見ると、明らかにご詠歌が異なります。 理由は不明ですが、「罪なきに・・・」のご詠歌が好まれず変更されたのかもしれません。 また、現在六波羅蜜寺にある元39番の夢見地蔵尊のご詠歌が「罪なきに・・・」だった可能性も考えられます。

更新日:2024/05/31