洛西四十八願所 | 洛西四十八願所順路記 成立年未詳[1] |
洛西四十八願所順路記 | 現在 | ||
---|---|---|---|
第一 | 粟生 | 光明寺 | 光明寺 |
第二 | 同 | 阿ミた寺 | 阿弥陀寺 |
第三 | 上里 | 阿ミた寺 | 「阿弥陀寺」廃寺[2]
※ 明治12年(1879)、地蔵寺と合併 |
第四 | 上羽 | 西方寺 | 西方寺 |
第五 | 小塩 | 十輪寺 | 十輪寺 |
六はん | にし山 | 善峯寺 | 善峯寺 |
七はん | 同 | 往生ゐん[3] | 三鈷寺 |
八はん | 同 | 奥ノ院 | 善峯寺 奥の院薬師堂[4] |
九はん | 灰方 | 聖徳いん | 聖徳院 |
十はん | 同 | 心光院 | 心光院 |
十一 | 大原の | 西光寺 | 西迎寺[5] |
十二 | 同 | さい方寺 | 「西方寺」廃寺?[6] |
十三 | 長野新田 | 寿保庵 | 重保院 |
十四 | くつかけ | 金りんじ | 金輪寺 |
十五 | つかはら | 称念寺 | 称念寺 |
十六 | なか山 | ちそう院 | ★調査中 |
十七 | かたぎ原 | 無量ゐん | 無量院 |
十八 | 同 | ちふく院 | 「地福院」廃寺?[7] |
十九 | 同 | 高圓庵 | 高圓寺 |
二十 | もづめ | 来迎寺 | 来迎寺 |
二十一 | 寺戸 | 願成寺 | 願成寺 |
二十二 | 同 | らい迎寺 | 来迎寺 |
二十三 | 上久世 | 常光院 | 浄光院 |
二十四 | 同 | 称名寺 | 廃寺[8]
※ 明治時代以降、光福寺と合併 |
二十五 | 同 | ちそう院 | 「地蔵院」廃寺[9]
※ 明治時代以降、光福寺と合併 |
二十六 | 同 | 安せんじ | 安禅寺 |
二十七 | 中久世 | 行願寺 | 行願寺 |
二十八 | 下久世 | ゆう楽寺 | 祐楽寺 |
二十九 | 大やふ | 臨江寺 | 善光寺
※ 大正5年(1916)、現在地へ移転。大正12年(1923)、改名 |
三十 | 東土川 | 西光寺 | 廃寺[10]
※ 明治10年(1877)、善法寺と合併 |
三十一 | 上うへの | 勝りんじ | 勝林寺 |
三十二 | 同 | 法道寺 | 法道寺 |
三十三 | 同 | 誓弘寺 | 誓弘寺 |
三十四 | 同 | 万ふく寺 | 万福寺 |
三十五 | 井之内 | 浄光じ | 浄光寺 |
三十六 | 今さと | ふめう寺 | 大正寺
※ 大正3年(1914)、改名 |
三十七 | 同 | 西向寺 | 西向寺 |
三十八 | 開田 | 三そんじ | 三尊寺 |
三十九 | 下うへの | 正覚寺 | 正覚寺 |
四十 | 圓明寺 | ちう福寺 | 長福寺 |
四十一 | 山てら | 永照寺 | 栄照寺 |
四十二 | かねか原 | ちそう院 | 地蔵院 |
四十三 | 下海印寺 | 阿ミた寺 | 阿弥陀寺
※ 平成25年(2013)、下海印寺西条22から現在地へ移転 |
四十四 | 奥海印寺 | 常光じ | 常光寺 |
四十五 | 同 | 聖徳寺 | 聖徳寺 |
四十六 | 同 | 浄土寺 | 廃寺[11]
※ 明治11年(1878)、阿弥陀寺と合併 |
四十七 | やなき谷 | 楊谷寺 | 楊谷寺 |
四十八 | 浄土たに | 乗願寺 | 乗願寺 |
[1] | 第13番寿保庵の所在地「長野新田村」の成立が元禄15年(1702)、第30番西光寺の廃寺が明治10年(1877)ですから、順路記の成立はこの間(1702-1877)と考えられます。 |
---|---|
[2] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、光明寺の末寺として上里(かみざと)村の「阿弥陀寺(無住)」が記されています。
また、「乙訓郡誌(1940)」復刻版P97の地蔵寺の項に以下の記述があります。 「明治十二年文議和尚代に至り八月十六日火災の爲に燒失した。然るところ其辰巳の方に阿彌陀寺と云ふ寺あり之と合併す」 |
[3] | 旧三鈷寺(北尾往生院)は現在の三鈷寺から西へ400mほど離れた位置にありました。 |
[4] | 奥の院と言えば楊谷寺がよく知られていますが、次の理由から善峯寺の奥の院と判断しました。 1)楊谷寺の所在地は西山と呼ばず、順路的にも前後の札所から大きく離れている。 2)善峯寺HPに以下の記述があり、これら三尾が6〜8番札所と考えるのが自然。 「その頃、善峯寺は南尾、中尾、北尾の三尾(三つの山の尾根)に分かれ、現今、本堂(観音堂)のあるあたりが南尾法華院、薬師堂(=奥の院薬師堂)のある中尾に蓮華寿院、 北尾には往生院がありました。」 |
[5] | 漢字は異なりますが、読み方が同じ「さいこうじ」であることから判断しました。 |
[6] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、三鈷寺の又末寺として大原野村の「西方寺」が記されています。 |
[7] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、知恩院の又末寺として葛野郡岡村の「地福院」が記されています。 西京区大枝中山町(旧・塚原村)にある地福寺とは別の寺院です。 |
[8] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、三鈷寺の末寺として上久世村の「称名寺」が記されています。 |
[9] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、三鈷寺の末寺として上久世村の「地蔵院(無住)」が記されています。 |
[10] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、浄土宗西山派の寺院として東土川村の「西光寺(無住)」が記されています。 資料では所在地が「東土方村」と書かれていますが、これは「東土川村」の誤記です。 |
[11] | 明治3年(1870)の「寺院本末一覧」に、光明寺の末寺として奥海印寺村の「浄土寺」が記されています。 |
更新日:2022/08/18