京都十六社 |
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祭神 |
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わら天神宮の正式名称は敷地神社といい、その起源は北山の神という山を神格化した存在でした。 天長五(八二八)年の大雨、大地震の際、時の淳和天皇が北山の神に幣帛を奉られた旨が「類聚国史」に記載されており、その創建は平安時代以前と推定されます。
天長八(八三一)年、この地に氷室が設けられることとなり、加賀国の人々が夫役として指定されました。 彼らは移住にあたり崇敬していた菅生石部神社の分霊を勧請し、その御母、木花開耶姫命を御祭神として北山の神とともに祀り、代々崇敬してきました。
応永四(一三九七)年、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便となったことから、両者を合祀して現在地へ遷座、社号を菅生石部神の通称である敷地神社としました。 その後は応仁の乱などで一時荒廃しましたが、仮社殿を設けて御神徳を受け継ぎ、弘化四(一八四七)年の大補修、昭和十(一九三五)年の改修を経て現在に至ります。
現在地へ遷座後、当社は「天神宮」と称していました。 また、古来より稲わらで編んだ籠に神饌を入れて神様に捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。 後にそのわらを切り取り、安産の御守として妊婦さんに授与するようになったのです。 そのわらの御守の珍しさから「わら天神宮」の名称が広まり定着しました。
出所:『わら天神宮』駒札
更新日:2017/02/19