乙訓鎮座神社 |
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祭神 |
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当社は奈良時代の元正天皇の養老二年(七一八)に創建。 桓武天皇の平安遷都(七九四)に際して御所の鬼門除けとして祈願され、文徳天皇の嘉祥三年(八五〇)神階最高位を賜り、以来「正一位小倉大明神」と号したのです。 後に醍醐天皇の崇敬きわめて篤く、延喜の制により式内名神大社に列しました。
天正年間、豊臣秀吉は山崎合戦(一五八二)のとき、家臣の片桐祐作[1]・脇坂陣内[2]を当社に遣わし戦勝を祈願、その本懐を達したというので神徳に報いようと、毎年米三千俵を寄進しました。 江戸時代になると徳川氏また山地二十余町歩を寄進したといわれ、明治維新までの旧境内地は六万坪余にのぼりました。
出所:『小倉神社記抄録』由緒書
[1] | 賤ヶ岳の七本槍の一人として有名な片桐且元の通称で、助作とも書いたようです。 |
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[2] | 脇坂安治の通称で、甚内とも書いたようです。 |
更新日:2022/09/02