乙訓鎮座神社 |
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祭神 |
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御祭神 応神天皇、姫三神(田心姫命・市杵島姫命・端津姫命)、酒解大神(又は大山祇命)
平安時代初めの頃、清和天皇が太陽の我が身に宿る夢を見給うた時の御告げにより、九州の宇佐八幡宮から神霊を奉じて帰郷した僧行教が山崎津で夜の山に霊光を見た。 そこで此地を掘ると岩間に清水が湧出したので国家鎮護のための「石清水」の八幡宮を此処に創建。 丁度、嵯峨天皇離宮の地なので、現在は「離宮八幡宮」と号している。 幕末の「禁門の変」では長州藩屯所となった為、兵火で焼失したものの、それ迄は水無瀬川より円明寺に及ぶ広大な神領を有し「西の日光」と云われる程の宏壮優美な社殿を構えていた。
鎮座後は対岸の男山にも分祀され、以後はそちらが、「石清水八幡宮」と称されるようになる。 こうした事から、毎年四月三日には勅使が先ず当社に詣った後、淀川を舟渡りして男山へと参拝する。 これが「日使頭祭」の起りである。 山崎津が油業の大中心地となり、また港として繁栄した室町時代には、五十隻の船が渡御する大祭礼であった。 京都賀茂神社の葵花をかざす祭が「北祭」とよばれたのに対して、油長者が藤の花をかざす「南祭」と称えられる豪華を極めたものであった。
やはり清和天皇の頃に、当社の神主が「長木」という道具で「荏胡麻」(青紫蘇に似た植物の種子)を絞って油を採り、神祀りの灯火に用いた。 これが始まりで、室町時代ともなれば、宮廷はもとより全国の社寺や一般の人々で、油と言えば山崎産のものを使わない人はなかった。
<略>
山崎は三川合流して大淀川となる地峡として、京都を目指す水陸交通の咽喉元に位置する。 そこで南北朝期の昔より、天下取りを望む武将たちは競ってこの地を占拠した。 神領を安堵し油座を手厚く保護することによって神威の御加護を願い一方では其の財力にも頼ったのである。 そのため天皇綸旨をはじめ、将軍義満や家康の書状その他禁制・下知など三百通にも及ぶ重要な古文書が保存されている。 昔、淀川べりに建てられていた大鳥居の額「離宮八幡」の文字は、「三蹟」と称えられる藤原行成の手になるという。 風格絶佳なる其の名筆は拓本として現存している。
出所:『離宮八幡宮』説明板
更新日:2022/08/25