乙訓鎮座神社 |
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祭神 |
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その創建は奈良時代にまで遡るといわれ、平安時代の延喜式神名帳にも月次、新嘗の官祭を受ける名神大社であることが記されている。 神名帳によると旧名を山崎社と称し、元正天皇の養老元年(七一七)建立の棟札があったという。
中世には山下の離宮八幡宮の勢力が強大となり、同社は山崎山(天王山)上に遷座し、山上の神はやがて天王社と呼ばれるようになり、山も天王山と呼ばれるようになっていった。 さて、今日同社には非常に珍しい重文の神輿庫が残されている。 一般によく用いられる▷形の木を積み上げた校倉形式ではなく、厚さ約14cmの厚板を積み上げた板倉形式で建立されている。 この板倉形式の遺構は非常に少なく、重文に指定されているものでは、奈良市内の春日大社にあるものが唯一であるが、それは江戸時代のもので新らしく、現存する板倉としては当庫が最も古く非常に貴重な建造物である。
出所:『酒解神社(自玉手祭来酒解神社)』大山崎町教育委員会駒札
宝積寺の境内を横切り、天王山山頂へ至るハイキングコースの途中に酒解神社はあります。 この鳥居が見えればもう少し。 天王山と言えばご存知、明智光秀と豊臣秀吉が天下取りをかけて戦った山崎の戦いがあったところ。 この戦いの史跡や説明版がコース途中のあちこちにあり、見晴台からの眺望も見事です。 |
≪本殿≫
本殿は予想よりも大きく立派でした。 本殿と拝殿の間が屋根で繋がっている構造は他にもありましたが、乙訓鎮座神社の中ではここが一番でしょう。 |
更新日:2022/01/18