西大路七福社 |
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祭神 |
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天長八年(八三一)、衣笠山の麓に氷室が設けられることとなり、その夫役が加賀国の人々に割り当てられました。 彼らは移住に際し、地元で崇敬していた菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)の分霊を勧請し、ご祭神を菅生石部神の御母・木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)と定めてお祀りしたのが当宮の始まりです。
応永四年(一三九七)、足利義満公による北山第(現在の金閣寺)の造営にあたり参拝に不便になったことから現在地へ遷座し、社号を菅生石部神の通称である敷地神社(しきちじんじゃ)としました。
その後、応仁の乱を始めしばしば兵火にかかり一時は大変に荒廃しましたが、弘化四年(一八四七)の大補修、昭和十年(一九三五)の改修を経て現在に至ります。
当宮では、古来より稲わらで編んだ籠にお供え物を入れて神様に捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。 後にそのわらを切り取り、安産の御守りとして授与するようになったのです。 そのわらのお守りの珍しさから「わら天神宮」という通称のほうがよく知られています。
出所:『三十五年の歴史を積み重ねて− 西大路七福社ご利益めぐり』
更新日:2017/02/11