京洛八社 |
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祭神 |
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当神社の御祭神は学問の神として人々から崇敬されている菅原道真公天神様であります。 延喜元年(九〇一)藤原時平のざん言により太宰府へ左遷、その途次 乳母多治比の文子に形見として、公自身で彫られた神像を授与された。 文子は御遺徳を偲び 庭前に小祠を造り、その神像をおまつりしたのが当神社の起こりであります。
後醍醐天皇時菅原道真公《八四五〜九〇三》は右大臣として、藤原時平《八七一〜九〇九》は左大臣として廟堂に列していた。 道真公は時平のざん言により太宰府に左遷され、二年後横死された。 その後、時平をはじめ、一門が不慮の災いに遭い、ことに清涼殿の落雷によって、朝臣の頓死、地震災害、天候不順による農作物の不作等政治経済の混乱など天変地異がおこり、これらはすべて道真公の怨霊のなす《たたり》と、人々を恐怖の底に追い遣った。 この様な社会情勢の不安定な中で、道真公の霊をまつる天神信仰が起こったのであります。
天慶五年《九四二》多治比の文子に託して、いまは天神となった道真公のお告げがあった。 多治比の文子が記した《北野天満自在天神宮を山城国葛野の上林郷に創建する縁起》(略称《創建縁起》)において、道真公はすでに天神の号を得たので鎮国の思いがある、世にあるとき、しばし遊んだ右近の馬場(今の北野天満宮)にまつられることを望むとお告げがあった。 天歴元年(九四七)六月九日に多治比の文子は、これを北野の地におまつりした。 これが北野天満宮の創建である。
<略>
当神社は菅原道真公を天神様として、日本で一番最初に信仰の対象におまつりした次第から《天神信仰発祥の神社》の由縁であり、《北野天満宮の前身神社》と言われる由縁であります。
出所:『文子天満宮 天神縁起』ちらし
境内には透明プラスティックの屋根がついており、雨の日でも濡れることなくお参りできます。 |
≪多治比の文子 託宣の像≫
神社の名前にちなんで「全国文子会」を結成し、その事業の一環で平成14年(2002)4月にこの銅像が建てられたそうです。 「全国文子会」の入会条件は、名前が「あやこ」「文子(ふみこ)」「あや」等であること。 |
更新日:2019/01/26